忍者ブログ

沼池(ぬまち)

距離を測る。■管理:よしを(ヨシヲエモン) ■mail→ yoshiwoemon [at] gmail.com ■Click MENU.
MENU

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

偶像

あおやぎなつみ『idol』考・メモ。

idol:http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/index.html
作家ブログ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/
 内、参考エントリ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/Entry/644/

---
(※“ ”内ブログからの引用。斜体にて区別)

idolとは。
偶像、信仰の対象になる像であり、実体として扱われる虚像。


私はパソコンと向き合うとき、たとえ周りに人がいたとしても、一人だという意識でいます。
それは大勢が一同に使うことを目的としたものではないというの理由もあるが、一番の大きな理由は、画面上に自分だけの実体(虚像、偶像)を作り上げてしまうからなのです。
パソコンに積まれたデータは実体ではなく、虚像だと言えるでしょう。
私が画面に向き合いデータを目にした時、データは視覚や聴覚を刺激して私の中で実体となっていく。
つまり、パソコンで見るデータは、idolということになるのです。

それがよくわかるのは、急増した「嫁」という文化です。
youtubeの普及や、ニコニコ動画などでアニメを気軽にいつでも見られるようになったことなども要因にあるようですが、実はパソコンでデータを見るということがそもそもの要因なのではないでしょうか。
上でも書いたように、偶像を個人の中で実体化することで「嫁」という自分に近い感覚を呼び起こします。
嫁には、花嫁など、一時的な夢の存在という意味も込められていたりして、妻とはまた違う現実とは少し離れた所にある言葉のように思えます。
データから享受される「嫁」もまたidolとしての存在であるのかもしれません。


 「嫁」文化(「~は俺の嫁」という定型句)はたしかに二次元世界へ歪曲したアイドル(和製英語的な意味で)信仰と見ることが出来るだろう。
 「嫁」という言葉の選択も確かに興味深い。「妻」ではなく、また「恋人」でもなく、「嫁」。確かにここでは一種の理想化がなされている。それは恋愛関係の極まりともいえる結婚への幻想である。さらに正確に言えばこれは、結婚を理想としつつも夫婦生活を拒絶するといったアンビヴァレントな心理の反映だともいえる。
 なぜなら、広辞苑(第五版)の「嫁」の項には次のようにある:「結婚したばかりの女。新婦」あるいは「結婚の相手としての女。」

 「嫁」宣言は対象と主体(宣言者)間の永遠の時間の静止である。これは「自分はこれからこのつまと夫婦生活を営む」という線的なイメージではなく、「~は自分の新づまである」という、点的なイメージとして見なければならない。「嫁」との関係において、主体は現実(実生活)を放棄しているのであり、その意味でこの「嫁」文化は極めて信仰に近い。主体にとって対象は永遠の花嫁とみなされるからである。

私にとってフィギュアは不完全な虚像です。
確かにきれいでかわいらしい形であり、見て楽しむこともできますが、そこに実体を感じてしまい、自分の中での実体を作ることができなくなってしまうのです。
自然に溶け込むフィギュアは、虚像でなく、idolでなく、フィギュアという実体であるとしか考えられません。


 実際にフィギュアを見る(触れる)ということと、画像に変換されたフィギュアを見るということの違い。
 上の文で私は括弧のなかに「触れる」と書いたが、これがもっとも決定的な相違である。辞書的な意味上において、偶像(idol)は実体に触れることは可能であるが、写像(ikon=イコン、アイコン)は実体に触れることはかなわない。

 まず、idolとikon(icon)の違いであるが、一般的に前者は偶像、後者は図像と訳される。しかしこれはあくまで辞書的な意味の違いでしかなく、現実には両者はほとんど混用されている。
 なぜかといえば、触れるという行為は対象と極めて近い(親密な)距離になったときに始めて可能となるものであり、いくら対象が像として実体を持っていたとしてもただ見ている限りではそれは画像(図像)に過ぎないというのが一点。そして決定的なのが、信仰者はなにも目の前の像や画像そのものを崇めているのではなく、その像や画像に投影された「神的なイメージ」を崇めているのである。もちろんそれに実体などない。これは例えばイスラム教等がわかりやすいが、回教は、信者が偶像そのものを崇めるようになってしまいその本質たる神がないがしろにされることを恐れてこそ、偶像崇拝を禁じているのである。

 繰り返しになるが、フィギュアの決定的な問題は容易く触れることが出来てしまう点にある。作家が述べている通り、触れられることで「そこに実体を感じてしまい、自分の中での実態を作ることができなくなってしまう」。あくまで偶像とはイメージ(宗教に於ける「神」など)のための記号でしかなく、そうでなくてはいけないのだ。

 次。
 『idol』の、アイドルグループ「AKB48」のブロマイドの写真、作家の妹の写真の写真、について。
 すでに画像となっているものををわざわざ再度レンズに通す意図がいまいち理解できずに居る。また、一部の写真で、顔部分がフラッシュで白く飛んでいるのも偶像としては致命的に思えた。スキャニングという手段もあるが。どういう意図なのか。
 すくなくともフィギュアの方法論とは並列できないと思う。

PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

Trackback

この記事にトラックバックする

× CLOSE

カレンダー

06 2020/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

最新トラックバック

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(05/28)
(05/29)
(05/31)
(05/31)
(06/01)

× CLOSE

Copyright © 沼池(ぬまち) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]