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沼池(ぬまち)

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偶像

あおやぎなつみ『idol』考・メモ。

idol:http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/index.html
作家ブログ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/
 内、参考エントリ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/Entry/644/

---
(※“ ”内ブログからの引用。斜体にて区別)

idolとは。
偶像、信仰の対象になる像であり、実体として扱われる虚像。


私はパソコンと向き合うとき、たとえ周りに人がいたとしても、一人だという意識でいます。
それは大勢が一同に使うことを目的としたものではないというの理由もあるが、一番の大きな理由は、画面上に自分だけの実体(虚像、偶像)を作り上げてしまうからなのです。
パソコンに積まれたデータは実体ではなく、虚像だと言えるでしょう。
私が画面に向き合いデータを目にした時、データは視覚や聴覚を刺激して私の中で実体となっていく。
つまり、パソコンで見るデータは、idolということになるのです。

それがよくわかるのは、急増した「嫁」という文化です。
youtubeの普及や、ニコニコ動画などでアニメを気軽にいつでも見られるようになったことなども要因にあるようですが、実はパソコンでデータを見るということがそもそもの要因なのではないでしょうか。
上でも書いたように、偶像を個人の中で実体化することで「嫁」という自分に近い感覚を呼び起こします。
嫁には、花嫁など、一時的な夢の存在という意味も込められていたりして、妻とはまた違う現実とは少し離れた所にある言葉のように思えます。
データから享受される「嫁」もまたidolとしての存在であるのかもしれません。


 「嫁」文化(「~は俺の嫁」という定型句)はたしかに二次元世界へ歪曲したアイドル(和製英語的な意味で)信仰と見ることが出来るだろう。
 「嫁」という言葉の選択も確かに興味深い。「妻」ではなく、また「恋人」でもなく、「嫁」。確かにここでは一種の理想化がなされている。それは恋愛関係の極まりともいえる結婚への幻想である。さらに正確に言えばこれは、結婚を理想としつつも夫婦生活を拒絶するといったアンビヴァレントな心理の反映だともいえる。
 なぜなら、広辞苑(第五版)の「嫁」の項には次のようにある:「結婚したばかりの女。新婦」あるいは「結婚の相手としての女。」

 「嫁」宣言は対象と主体(宣言者)間の永遠の時間の静止である。これは「自分はこれからこのつまと夫婦生活を営む」という線的なイメージではなく、「~は自分の新づまである」という、点的なイメージとして見なければならない。「嫁」との関係において、主体は現実(実生活)を放棄しているのであり、その意味でこの「嫁」文化は極めて信仰に近い。主体にとって対象は永遠の花嫁とみなされるからである。

私にとってフィギュアは不完全な虚像です。
確かにきれいでかわいらしい形であり、見て楽しむこともできますが、そこに実体を感じてしまい、自分の中での実体を作ることができなくなってしまうのです。
自然に溶け込むフィギュアは、虚像でなく、idolでなく、フィギュアという実体であるとしか考えられません。


 実際にフィギュアを見る(触れる)ということと、画像に変換されたフィギュアを見るということの違い。
 上の文で私は括弧のなかに「触れる」と書いたが、これがもっとも決定的な相違である。辞書的な意味上において、偶像(idol)は実体に触れることは可能であるが、写像(ikon=イコン、アイコン)は実体に触れることはかなわない。

 まず、idolとikon(icon)の違いであるが、一般的に前者は偶像、後者は図像と訳される。しかしこれはあくまで辞書的な意味の違いでしかなく、現実には両者はほとんど混用されている。
 なぜかといえば、触れるという行為は対象と極めて近い(親密な)距離になったときに始めて可能となるものであり、いくら対象が像として実体を持っていたとしてもただ見ている限りではそれは画像(図像)に過ぎないというのが一点。そして決定的なのが、信仰者はなにも目の前の像や画像そのものを崇めているのではなく、その像や画像に投影された「神的なイメージ」を崇めているのである。もちろんそれに実体などない。これは例えばイスラム教等がわかりやすいが、回教は、信者が偶像そのものを崇めるようになってしまいその本質たる神がないがしろにされることを恐れてこそ、偶像崇拝を禁じているのである。

 繰り返しになるが、フィギュアの決定的な問題は容易く触れることが出来てしまう点にある。作家が述べている通り、触れられることで「そこに実体を感じてしまい、自分の中での実態を作ることができなくなってしまう」。あくまで偶像とはイメージ(宗教に於ける「神」など)のための記号でしかなく、そうでなくてはいけないのだ。

 次。
 『idol』の、アイドルグループ「AKB48」のブロマイドの写真、作家の妹の写真の写真、について。
 すでに画像となっているものををわざわざ再度レンズに通す意図がいまいち理解できずに居る。また、一部の写真で、顔部分がフラッシュで白く飛んでいるのも偶像としては致命的に思えた。スキャニングという手段もあるが。どういう意図なのか。
 すくなくともフィギュアの方法論とは並列できないと思う。

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ドラえもんがドラえもん

なぜドラえもんはドラえもんズのリーダーなのか


ドラえもんは不良ロボットである。工場の製造段階でネジが一本抜け落ちてしまったためだ。
そのため、セワシの家にお手伝いロボットとしてやってきてもへまばかり、自分と瓜二
つに製造されたほか多数の優秀な(不良品でない)ロボットたちと自分とが違うことに
深く落ち込み、劣等感を抱く。ネズミロボットに頭の耳をかじられ耳は取れるは、終い
には元気の出る薬と間違えて、落ち込む薬(自分で出した)を飲んで、何日も激しく泣
き叫び続け、そのために声は枯れ黄色い塗装は剥がれ落ちてしまう。
結局のところ、ドラえもんは「醜いアヒルの子」とほぼ正反対の経緯を経て今に至るのだ。
ドラえもんは落ちこぼれの劣等者である。しかしその事実は、むしろドラえもんをドラ
えもんたらしめている。一番重要な要素であるともいえる。

ドラえもんは、本来大量生産品の中の1個に過ぎないはずだった。彼は自身のからだに
何の疑問も持たず、セワシの家で便利なお手伝いロボットとして使われていくはずだった。
しかし偶然にも、一個のネジという欠損により、彼はその他大勢と区別されることになる。
ドラえもんは悩まなければいけないという宿命を持って、完成させられてしまう。
このネガティヴな差異は、しかし、ドラえもんのこころを育む最大の要因になる。彼
は不良品であったからこそ悩み、自らの劣等感を昇華させる形で己独自のアイデンティティを築いてゆく。
ドラえもんはドラえもんであり、この、悩める「ボク」自身でしかないと自覚される。

『頭テカテカ 冴えてピカピカ それがどうした ボクドラえもん』

ちゃんちゃん♪

体毛/キリン

あの、


今日は雪がふり、つめたい思いをしたが
冷たいと感じた自分はその瞬間に過去に
なっているから冷たいと思ったことの記憶は果たして精密
なのかどうか、正確な冷たさの感覚は、存在するのか。
はじめて冷たいと思ったのはいつだったろうか???
感覚を語ろうとしたら記憶をたどってその感覚に似ている
ものを言葉にしてしまうしかないあたりが絵ににてる


似せても似せても近似値をとっても、それは似ているであって
同じにはなって重なることはないようなきがしているのです
そのことは似せることの正義は完全に破綻していると。
似せていくという行動はすこし疑わないとなるまい
何に似せていくのかは気にしたほうがいいかしれない



とは、panpanyaさんが自身の日記の中で書いていたんですが、それをよんで俺は「ああ」ってよくわからないけど思いまして、日記久しぶりに書こうかとか思ったわけなんですが。

「かんかく」とか「気」って要は「夢」のことじゃないですか、でそういうのってそとにでてくれないんですよね。外には「記憶」ってのがあってそれがうえにかいた「感覚」とかの近似をしてくれる仕組みになっていて、それは理性的なんですね。記憶はことばで記述されるもので、それが昨日見た夢とか今食べたオムライスの味とかを再録してくれるわけですが。そうだとおもいます。おれはそんな風に思いました。なので「思い出す」っていう動詞は実はあまり好ましくないのかなある意味では。とか思うわけです。思い出さす必要もなく、類似を気にしないかぎりはそういう風にものを作ることも可能というか、そのほうがいいのかなとかんじます。ある意味では。
クオリアってことばの響きが素敵です。


日本語はえんえんと婉曲で切るのでこまりものですね。

芸術って何なの? とかいうひとりごと。ちょっと新ラさんとこの記事を読んで触発された。

おそらく、今現在の「現代美術」は、美術館を中心とした既存の教養的美術体系にけんかを売ってる。←イマココ  だから「これもアートだろ?wあれもアート??wwwアート(笑)」みたいな一見むちゃくちゃで型破りな作品が多く出ている。「おまいらお偉方が寄り集まって信望してきた『芸術』って一体なによ?」ってみんな言おうとしてあがいてる。
だからね、きちんとかんがえられた作品には正しく鑑賞すれば一貫したテーマやコンセプトが見えてくるし、簡単には貶められない強さがあるもの。ただそういう真面目な人たちと、「アートってらくがきで行けんじゃねwww」みたいに考えてる軽薄な人たちがごっちゃになってるから見づらくなってるだけでそのうち淘汰されるでしょう。

あと、作品と値段の話を直結して考えてはいけない。作品の値段=作品の価値ではないです。美術作品には、オークションとか、そういうものが流通する専用のマーケットがあって、値段というのはあくまでそのなかの話だから。俺は経済とか、マーケットとかには全然詳しくないからあまり語れないけれども、

フィギュアが16億円で落札された現代美術家・村上隆 米で人気の秘密

↑とか見てみるといいかもしれない。
すこし引用すると、「村上氏の海外での認知度が高まるにつれ、(村上氏の作品が)「投資対象」になっていることも高額落札の背景にあるという。」(※太字化、及び括弧内の補足は筆者)
ということもあるみたいで、このことからも価格≠価値であることがわかると思う。


ひとついえるのは、美術館に収蔵されたかったり、高額取引されたかったら空気読めってことでしょうか。
そんな芸術俺は嫌だけど。

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