今知ったけど、「ミクダヨー」って興味深いな。「まんがのおばけ」(伊藤剛)(※1)そのもの。
「ミクダヨー」みたいなムーブメントが起きること自体、日本のアニメ・サブカルの爛熟(と腐敗)を象徴していると思う。
現実のスピードが想像力を超えちゃってるかんじ。ミクダヨーが主体のないムーブメントだってことがそれを物語ってる。
みんな無意識的には感じていることなんだけど、それが意識的な表現にまで昇華されないうちに、そのままの「無意識的な表現」として社会に流出してしまった感じ。よくないと思う。
・・・今までも「邪神モッコス」とか、「チャクラ宙返り」とか、似たようなのはあったが、「ミクダヨー」にいたって、高度に洗練されている。ねんどろいどの「初音ミク」と「ミクダヨー」とを比較してみると良い。(※2)
この、つねにメタレベルを志向してしまうところが、「キャラ」の本質的なところなんだろうとは思う。
「初音ミク」→「ミクダヨー」の変遷の肝は、「中に誰もいませんよ」→「中に人が入ってるんだよ」(ニコ動のコメントより)の変遷だということだと思う。(※3)――――――――――――
※1・・・伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』参照。
※2・・・というか、ねんどろいど化されてしまったという事実自体が、この手のデザインの中でも特筆すべき存在として扱われていることを物語っている。
これは、「初音ミク」というキャラ自体の、自律度の高さ(「キャラの自律性」とは、伊藤剛の語。※1参照)が多大に影響していると思う。
これは、いわゆる「作画崩壊」されてしまったデザインを、新しいセンスとしてポジティブに扱っている運動としてとらえることができる。作画崩壊ネタは、ネットではアニメやフィギュアのクラスタを中心にして積極的に揶揄され、取り上げられているテーマである。それは、「キャラ」という、自律的にふるまいながらシミュラークルを形成していくメディアならではの現象といえないだろうか。
記号的な「キャラ」が、不特定多数の匿名的な人の手を何重にも介することによって、非‐記号的なイメージとして再翻訳される。そこに再生産されるのは、明らかに、キッチュ以外の何ものでもないのだが、しかしそこには畸形を眺めるときの背徳的な楽しさがあるといえる。
※3・・・もともとキャラの背後(=「中」)には作り手、声優、などの多数のクリエイターが存在している(一般的に想定されるのは声優だろうか)。消費者は普通、それらの人間を存在しないものと「設定し」て、キャラを実在しているようなものとして扱い、楽しんでいる。これは多分に自覚的な行為であり、「中に誰もいませんよ」とはその反語である。
では、「中に人がはいっているんだよ」とはどういうことだろうか? まずこれは、着ぐるみの初音ミク(=「ミクダヨー」)に対してのコメントであることに留意したい。つまりこの場合には、”着ぐるみに入ることができるようなあらゆる人物”がその背後に連想されてしまうのである。つまりそれは、クリエイターでもあり消費者でもありうる、匿名的な「一般のだれでも」である。それは詰まるところ、「俺」=〈楽しむ主体本人〉が(自分自身によって)「中の人」に想定され得てしまうという事を表している。
※2への補足的な形でいえば、キッチュなキャラと「俺」とを同一視するこの視座は、自分個人に始まって、自らを含む文化クラスタ全体へまで及ぶ大規模な「自虐ネタ」として、この現象が機能していることを示しているといえる。
PR