「つまり あなたはあ 近親相姦願望はとどまるところ胎内復帰後退性思考だというのね」
「そうです」
「じゃ まさかあなた それは同性愛思考に結びつくなんていうんじゃないでしょうね」
「そのとおりです」
大島弓子の作品には、こころが崩れてしまうヒロインが沢山でてくる。
『八月に生まれる子供』、『ダリアの帯』とかが有名だけど、他にも同趣異題の作品はいくつかある。概して、大島作品のヒロインたちは、どこかおぼつかなく、それこそフロイト的な意味での「自我」の形成との対決に曝される場合が非常に多いような気がする。
『バナナブレッドのプディング』
そしてこの物語の主人公は山の中の精神病院送りにならず、きっと救われるだろう。
そして彼女を取り巻く全ての人たちも。
彼女が彼女の周囲の人たちを救い、彼女の周囲の人たちもまた彼女を救うので、その2つは同時におしまいまですすむ。『バナナブレッドのプディング』の複雑さは、そういうところに起因しているとおもう。
私は新潟教授に一番共感してしまう。
最後、泥酔してぶっ倒れた教授は、果たして救われた、のだろうか?
衣良と教授とは、実のところ光と影のような関係ではないか。俺が教授を贔屓目で見ているだけかもしれないが、衣良の影つまり補償的な面として、新潟教授が存在しているようにおもう。
だからして、衣良が救われるならばそれは教授の救済をも意味していることになる。最終章の副題「お酒の力を借りて・・・」が、教授のことを指しているようにとれるのも興味深い。お酒の力をかりているのは、衣良ではなく、峠でももちろんなく、教授と、それからさえ子&哲学科3年なのだ。
こういう風に考えたらどうだろう。教授が「お酒の力を借り」たから、衣良は最終的な転機を迎えることができ、さえ子も「お酒の力を借り」たので、峠は衣良を迎え入れることができたのだ、と。
『バナナブレッドのプディング』では、こうした相互性・相関性のようなものが興味深く描かれる。
この記事冒頭に引いた、作中では最終頁直前に描かれている、さえ子と哲学科3年との会話がある。この難解(?)な議論は、何のことだろうか。
表面的には、さえ子の恋愛感情に根ざした一連の奇行に対する評価として読める。フロイト風だが、適当に言葉を連ねただけのような「じゅずつなぎ思考」。
そうだろうか? この直後に衣良が同じ晩に見た夢が語られて物語は幕を下ろす。であるならば、この2つの間に何らかの関連性を見出さずに本を閉じてしまうだろうか? というか、要するにそこを「読まない」なんて、面白くないってことなのだが。
結論から申せば、この一見奇天烈な「じゅずつなぎ思考」の分析は、そのまま衣良に当てはめることができるだろう。
「近親相姦願望」とは、衣良の沙良に対する強い依存のこと。そしてそれは同時に「同性愛思考」でもある。そして、それを通じて、衣良の、根強い「胎内復帰後退性思考」が表現されている。
もちろん、どう読むかは読む人の勝手で、これは1つの納得の仕方でしかない。そしておれは(が)、ひとつの「青写真」として、この文章を完結させたいと思っているだけなので、他の人には全然関係なかったり、または興味深かったりするだけかもしれない。
閑話休題。近親相姦願望=胎内回帰願望=同性愛願望とつなげていった時に見えてくるのは、つまり、「娘の、母との同一化願望」ということではないだろうか。衣良にとっては〈母=姉の沙良〉で、そして沙良こそが衣良にとっては、だれよりもいっそう「衣良自身」だった。
(※お詫び:以下に続く文章ですが、私よしをが、作品を誤認して書いていました。作品論としては不適切な文章でしたので撤回させていただきます。失礼致しました。詳しくはコメント欄をご覧下さい。)
最後の夢だ。そこで、生まれてくる赤ん坊は、衣良に対してはじめてこんな不安を語る。
おなかにいるだけでも
こんなに孤独なのに
生まれてからは
どうなるんでしょう
生まれるのがこわい
これ以上
ひとりぼっちはいやだ
というのです
これは、それまでの衣良が抱えていた不安とそのままぴったり重なる。「おなかにいるだけでもこんなに孤独」というのは凄い。胎内に、母親と一緒に生きていても尚「孤独」だという。衣良はこれまでどんなに巨大な孤独の中で、一人生きてきたのだろう。この危うさ、底知れぬ孤独のその先、どん詰まりに、例の「山の中の精神病院」が建っている。胎内にも復帰できず、外の世界からも拒絶されたとしたらいったいどこに向えばいいのだろうか。
じじつ衣良も、そのような危機を1回体験している。第4章の終盤、衣良はおそれていた「人喰い鬼」についに食べられてしまう。鬼の体の中に取り込まれ、衣良は鬼と同一化してしまう。
衣良は自分の中の〈暴力〉に気付かなくてはならない。それは人間なら誰もが経験しなければならないことなのだが……衣良はそのことがわからない。自分は「とくべつ」なのだと信じ、頑なになってしまう。
でももうその不安は、衣良から離れつつあるのだ。先の引用の文末、「というのです」というのは衣良自身の言葉だが、ここで、衣良は自分が今まで抱えていた不安を「内なる他者」の不安として客体化できつつあることが示される。
そして「母」の衣良は、生まれはじめたばかりの「赤ちゃん」に向かってこう語りかける。
わたしはいいました
「まあ生まれてきてごらんなさい」と
「最高に素晴らしいことが待っているから」と
朝起きて、衣良は夢の中の自分の言葉が、どこから出てきたのかはっきりしない。はっきりしないけれど、確信に満ちている。衣良はそれが不思議でならない。
ほんとうに
なんなのでしょう
わたしは
自信たっぷりに
子どもに答えて
いたんです
でも、きっとわかるときがくる。その遠くない未来に。
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