あの、
今日は雪がふり、つめたい思いをしたが
冷たいと感じた自分はその瞬間に過去に
なっているから冷たいと思ったことの記憶は果たして精密
なのかどうか、正確な冷たさの感覚は、存在するのか。
はじめて冷たいと思ったのはいつだったろうか???
感覚を語ろうとしたら記憶をたどってその感覚に似ている
ものを言葉にしてしまうしかないあたりが絵ににてる
似せても似せても近似値をとっても、それは似ているであって
同じにはなって重なることはないようなきがしているのです
そのことは似せることの正義は完全に破綻していると。
似せていくという行動はすこし疑わないとなるまい
何に似せていくのかは気にしたほうがいいかしれないとは、
panpanyaさんが自身の日記の中で書いていたんですが、それをよんで俺は「ああ」ってよくわからないけど思いまして、日記久しぶりに書こうかとか思ったわけなんですが。
「かんかく」とか「気」って要は「夢」のことじゃないですか、でそういうのってそとにでてくれないんですよね。外には「記憶」ってのがあってそれがうえにかいた「感覚」とかの近似をしてくれる仕組みになっていて、それは理性的なんですね。記憶はことばで記述されるもので、それが昨日見た夢とか今食べたオムライスの味とかを再録してくれるわけですが。そうだとおもいます。おれはそんな風に思いました。なので「思い出す」っていう動詞は実はあまり好ましくないのかなある意味では。とか思うわけです。思い出さす必要もなく、類似を気にしないかぎりはそういう風にものを作ることも可能というか、そのほうがいいのかなとかんじます。ある意味では。
クオリアってことばの響きが素敵です。
日本語はえんえんと婉曲で切るのでこまりものですね。
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