梅ラボのタンブラーにある個々の画像は喩えて言うならば、「タイトルのみが存在する架空の物語」ではなかろうか。そして、それらとは別に梅ラボのタンブラーはそれ自体でひとつの物語を形成している。個々の画像の集合というのは表面的な相に過ぎない。そこに蓄積されていく画像らは一見てんでばらばらでありながらある種の共通項を持っている。それは『カオス*ラウンジ』のコンセプトとも通ずるものである。逆説的であるがカオスを「カオス」たらしめているオーダーが確かに存在する。
いまたまたま手元に恩田陸の小説、『三月は深き紅の淵を』がある。第四章『回転木馬』から一部分を引用したい。――“幼年期の影響というのは面白いものだ。 <中略> デジタル世代の現代の子供たちが大きくなったときに何を作るか、非常に興味がある。ゲームの世界に影響を受けた彼等はどんな夢を見るのだろうか?<中略> デジタルなビジュアル時代の次には何が来るのだろう。私はなんとなく、絵のない世界が来るような気がする。ダイレクトに脳に映像が送られるか、反対に耳から聞く物語が復活するのではないだろうか。みんなで同じ映像を見ることが煙たがられる時代が来るかもしれない。”
この小説は今からおよそ10年前の1997年に刊行されている。非常に洞察の鋭いものであるという印象と共に未来への示唆も含んでいるようにすら感じさせられる。
「ポストポップ」と、「ダストポップ」。
上記2つの単語はpixivを中心に活動を展開している若手アーティスト、藤城嘘くんが提唱しているものである。もっとも、提唱、という言葉を用いるほど重々しい雰囲気のものではない。この言葉は上記してきたような画像群とその発生過程とを名称したもので、その内容と共に言葉の語感自体も非常に軽い、ポップな印象を受ける。
とくに『ダストポップ』。言葉が出来た順番は「ポストポップ」→「ダストポップ」であり、そのことから後者は前者のもじりであることがわかる。『ダストポップ』という言葉は彼のブログのタイトルとして用いられているのみであり、彼はこの語をとくに普及させようとは努めていないようだ。(「ポストポップ」と比較して、である)
しかし『ダストポップ』という言葉は『ポストポップ』以上に私を刺激する。もやもやとしていたものの一角が見えたような感覚。語呂もいい。素敵なことばだ。
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■参考
http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20090401
http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/
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