『止まらない子供たちが轢かれてゆく』 綾門優季 様
初めまして。私は、9月6日19:00回の本公演を観劇させて頂いた者です。相澤良紀(あいざわ・よしき)と申します。私は今年26歳になるのですが、元々演劇に携わってきた人間ではなく、観ること自体も、今回が3回目(3種類目)くらいの、演劇については全くの初心者です。大学生の頃映像や美術は勉強していたので、その時の講師だった人で、佐々木敦さんという批評家がいらっしゃいますが、彼がtwitterで、この劇のことを紹介されていたので、興味を持って観劇した次第です。今回、劇を観させて頂いて、また終演後のトークイベントも聴かせて頂き、劇の表現と、トークで綾門様が仰っていたことが、自分なりの、問題意識と繋がることがありまして、実はトークイベントで質疑もさせて頂いたのですが(2番目に、学生さんの後に質問した者です)、あの場では意見をまとめることが出来ず、未消化になってしまいましたので、こうしてお手紙としてしたためさせて頂くことにしました。
そもそも私にとって、この劇は「面白い」と感じられるものではありませんでした。すいません、もっと率直に言わせて頂くと「つまらない」と思いました。しかし一方で、この劇は賞を受賞されていますし、先述の佐々木敦さんや、トークイベントの田川啓介さんなども好意的な評価をされています。この違いは何だろうか、と思いました。
気になっているのは「言葉」に関する評価です。どうやらこの劇をめぐる言説を聴いていると、皆さん話題にされているのは「言葉による表現・言い回し」とか、「言葉の不自然さ」といったことのようで、綾門さまご自身も、その点にこだわりを持って創作されていた様でした。
しかし私の印象としては、あの劇においては、「言葉そのもの」が、皆さんが仰る程前面化していたり、重要視すべきものだとはどうしても感じられませんでした。私にとっては「小学生がああいう口調で喋るかどうか」といった事はどうでも良く、あくまでドラマ内容それ自体が重要に思えます。少なくともあの劇においては、舞台が小学校か、中学か、高校なのか、という事は小さな問題ではないでしょうか? もし小学生であることを強調したいのならば、ランドセルとか、名札、学帽といった便利な記号がありますが、結局綾門さまはそうした小道具の使用を選択されなかった訳ですから。
しかし、「内容それ自体」なのですが、私にはここが退屈に思えるのです。まず観念的すぎると思います。綾門さまはトークイベントで、「ことばにからだが振り回されている感じがする」「ことばとからだとの拮抗がうまく作れていない」といった意味の反省を仰っていたと記憶していますが、それは当然の事だと思います。というのは、綾門さまの仰る所に依れば、「あらゆる感情は言語化できる」ということを仰っていたと思いますが、それは言葉を操れる側の主観でしか無いからです。ある対象(赤ちゃんや石など)を見て、「あ、これは○○と思っているだろうな」と感じたとしても、それはその人の主観を出ません。ということは、綾門さまがご自身の劇で小学生に喋らせても、赤子に喋らせても、老人や、木や石や、犬・猫に喋らせても、結局それらは全て綾門さまの「思い込みの言葉」でしか無いわけです。赤ん坊はそもそも言葉を獲得していません。彼の中にあるのは、何かしらの激しい起伏(それは一応は「快」「不快」と定義されるのでしょうが)だけです。
逆に、ある気分の時に、それを自分で「かなしい」と名付けるか、「悲哀だ」と名付けるか「死にたい」と名付けるか、によって心の中に定着する気分の質は変わります。言葉の側から、その時々の感情が決まることもある。
言葉は気分や流れ、からだといったものの本質を突くための道具ではなくて、それらを便宜的に分類し、方向指示する指標にすぎないと思います。だから観念的に言葉だけを並べても、それを発する側の気持ちが右往左往するだけで、身体的な実感に結びつかない。
それから綾門さまは「きれいな」言葉を使うようにしている、と仰いました。つまり「薔薇」とか「檸檬」といった様な。しかしそれらは文章として、見た目が美しい言葉にすぎないのではないですか? そうした工夫が活かされるのは小説であって、演劇ではないと思います。むしろ漢語は濁音が多くて、ののしり合いが中心であるこの劇に於いては、私はすみませんが全然きれいとは思えませんでした。
話を戻しますが、例えばカラスにはカラスの言葉があります。猫には猫の、犬には犬の。もしかすれば木にも木の言葉があるかもしれません。しかし彼らが日本語を喋らないのは、彼らの言葉が、他の言語に置きかえられない内容を示しているからだと考えることができます。それを人間の言葉、殊に綾門さまひとりの言葉へ一様におきかえるのは、認識を退屈にする作業とはいえないでしょうか?
そもそもなぜ演劇は、身体があるのですか?
言葉にできない流れや気分や空気、起伏といったものを表現する為に身体があるのではないのですか?
これは演劇初心者の私の、素朴な理想論でしょうか。
世の中を全て言葉で置きかえたいのなら、朗読劇にするか、ラジオドラマか、もっと言えば小説を書けば良いと思うのです。
ただご自身の言葉を、他人に押しつけるのだけは止めてほしいと思いました。
すいません、後半がただの批判の塊のようになってしまいました。私の言いたい事は以上です。創作、頑張って下さい。
2014.9.7.
相澤良紀
P.S.
綾門さま
お手紙を読んで下さってありがとうございます。そちらに書いた事は、まず私自身の問題意識として痛切なことがらです。今回『止まらない子供たちが轢かれてゆく』という演劇のテーマと、それから綾門さんご自身の問題意識、それらに直面しなければこの手紙は書かれませんでした。
その意味で、この手紙は批判的な内容になっている(ならざるを得なかったのですが)のですが、私がこの劇を見て、綾門さまの考えを聴けたことは大きな意義がありました。
ですから、私はぜひ、その言葉を綾門さまの方へ伝えたかったのです。
もっと言うと、「伝えなければならない。」私にとってこの問題(ことばと、からだ~世界をめぐる問題)はそれくらい切実な問題として、あります。
最後に、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』をめぐる文章は、私のブログでも平行的に書かせて頂いています。というより、この手紙もその一環としてあります。合わせてお読み頂けると幸いです。
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。
感謝致します。
2014.9.8. 相澤良紀