あおやぎなつみ『idol』考・メモ。②
idol:http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/index.html
作家ブログ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/
内、参考エントリ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/Entry/644/
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(※“ ”内ブログからの引用。斜体にて区別)
“死んだメリー。
私はこのメリーをかわいいと思っています。
もちろん死んだという事実は悲しいし、たくさん泣いて、今も思い出したくないくらいですが、骨になって淡いピンク色の布に包まれたメリーを見ると、すごい勢いで私の頭の中をメリーがかけめぐるんです。
私にとって、これが虚像です。
私や家族以外の人がこれを見ても「かわいそう」と思うだけです。「かわいい」と言われたことはありません。
それは、メリーが家にきて、家で過ごして、死んでいって、それを受け入れるという過程を経験したのが私と家族だけだから。
他人にとってこのメリーは遺骨という実体でしかないのです。” 作家の飼っていた猫の遺骨が納められた箱の写真。
作家本人も書いている通り、これは他人の共感を呼ぶようなものではない。作家とその家族にとってのみの偶像である。これは、先にあげた妹の写真についても実のところ、そうである。しかし「妹の写真」と違うのはこれが箱だということだ。
「妹の写真」は他人にとっても共感を生みやすい。つまり、「かわいい」などといった感情を対象に宿しやすい。
“もちろん妹は今私の横にいます。
しかしその妹と、過去の妹とは私にとって別の存在だと言えるのです。” しかし。他人に共有されうる偶像(先の話で言うところのフィギュアなど)と、個人的な経験に基づく偶像、つまり他人の共有を退ける偶像とは根本的に、対象に抱く感情という点で異なる。後者の場合には対象が偶像化される前の記憶や経験が主体に残るからである。それにもとづいて偶像化がなされるわけであるが、その偶像が客観的に共感を引き起こしやすい外見を持っていた場合(例えば「妹の写真」は一般的なこどもはかわいい、かわいいこども、といったような概念と照らし合わせることが出来る)、それは全くの他人にとっても偶像になりえるかもしれない。
しかしやはりそれはフィギュアとは根本的に違うのである。この、作家の偶像を見せる際の意図のぶれは一体なんだろうか。
フィギュア・アイドル写真と、家族写真・家族の遺骨を『idol』でひとくくりとして並置した場合、それはどのような意味を生成する場となるのだろう。
そのような提示はどのような意味を生む場として機能し得るのか?
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