忍者ブログ

沼池(ぬまち)

距離を測る。 ■mail→ yoshiwoemon [at] gmail.com ■Click MENU.
MENU

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

てくび

手首と腰を傷めました。
それぞれに関連性はないのだが、結果的には双方関連しあって生活をしづらくしていま
す。
日々の思考はそれぞれが相関関係にあるため、それをビジュアル化したらきっと目まぐ
るしくごちゃごちゃとこんがらがって変わり続けてゆくさまが見られるでしょう。

ハコを作ろうかと考えているのですが、考えているのですがハコというハードの中には
それ相応の魅力的なソフトがなければいけないわけです。アートマネジメントの授業で
も先生がそう仰っていました。思えば薬を飲んで家いっぱいに巨大化したアリスはそ
の家にとって魅力的なソフトだったのでしょうか。そうでしょう、と自分は思うわけ
ですが、しかしアリスの肢体の少女特有の柔らかさと、いま述べてきたソフトという
概念は単なる駄洒落です。ですが、そこにはある程度の真実も含まれている、とも思
うわけです。

あることがあって、こんなことで悩んでいるのは自分だけかもしれないと思うと
ちょっとのけられたような気分になりますが、それはともかく、今日は久しぶりに美
大生らしい一日を送れたとそんな風に思ったりもしました。

インターネット上ではエヴァの話題で持ちきりですが、エヴァを中途半端にしか見て
いない自分としてはなんだか取り残されたような気分にもなるのでした。
こういった文脈でいうと、ガンダムもエヴァもハルヒも、特に興味は持たなかったの
ですが、(あえて示すならガンダム<エヴァ<ハルヒだけれど)こういう環境を見る
につけても、なんとも自分は「お宅」でも「オタク」でも「おたく」でもないなあと
考えたりするわけです。

ところでセミはいつ鳴くのだろうと思うのですが、去年ももっと遅かったかなあ。
PR

2,3日前の夢の記憶と、今日のおそらく明け方頃。ひどく曖昧。

なにかのアナウンスによって状況の説明がなされている。モニタもあって映像も映していたかもしれない。(内容忘却)

(安倍公房のエッセイに、ひどく概念的な夢の話があったのを思い出して、あれはこういうものだったのかもしれないと思った。)


---

少年は家出をしてきたのだったが、寒い冬の夜で、サッカーのユニフォームを着ていた
ために野宿で夜を越そうとすると凍え死ぬと思う。アパート(か学校か病院?)のよう
な施設から暖かい光と料理のいい匂いが漏れていたので覗きこんで中に入れてもらおう
とする。しかし、警察を呼ばれかねない(あるいは呼ばれてしまった)ので、逃げる。
バスの停留所で震えていたところを運よく先ほどの施設のお姉さんに保護される。警
察にばれないように頭を丸坊主にする。
やがて家族(両親、兄、弟)が彼を探しにやってくる。彼は頭を坊主にしていたおかげ
でばれない。しかし怪しまれている。兄が、「どうして君は弟(つまり、彼)の下着を
穿いているのですか」というような質問をする。カマをかけているわけだが、なかなか
頭のいい質問をするなと思う。しかし彼は、「いえ、そんな下着はつけていません」と
うまくかわす。
このとき少年の眼が異様に大きく瞳孔が四角く、マンガのデフォルメみたいになって
いた。

彼は何とか無事に家族をやり過ごした。解放された彼は温かい気持ちで嬉々として将
来の夢を語る(その夢と両親の意見が合わず家を出たらしい。内容忘却)。実際気候
も暖かくなっている(室内だったからかもしれない)。なんとなく夢(この夢)の
タッチが少女マンガ風になっている。

偶像の2

あおやぎなつみ『idol』考・メモ。②

idol:http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/index.html
作家ブログ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/
 内、参考エントリ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/Entry/644/

---
(※“ ”内ブログからの引用。斜体にて区別)

死んだメリー。
私はこのメリーをかわいいと思っています。
もちろん死んだという事実は悲しいし、たくさん泣いて、今も思い出したくないくらいですが、骨になって淡いピンク色の布に包まれたメリーを見ると、すごい勢いで私の頭の中をメリーがかけめぐるんです。
私にとって、これが虚像です。
私や家族以外の人がこれを見ても「かわいそう」と思うだけです。「かわいい」と言われたことはありません。
それは、メリーが家にきて、家で過ごして、死んでいって、それを受け入れるという過程を経験したのが私と家族だけだから。
他人にとってこのメリーは遺骨という実体でしかないのです。


 作家の飼っていた猫の遺骨が納められた箱の写真。
 作家本人も書いている通り、これは他人の共感を呼ぶようなものではない。作家とその家族にとってのみの偶像である。これは、先にあげた妹の写真についても実のところ、そうである。しかし「妹の写真」と違うのはこれが箱だということだ。
 「妹の写真」は他人にとっても共感を生みやすい。つまり、「かわいい」などといった感情を対象に宿しやすい。

もちろん妹は今私の横にいます。
しかしその妹と、過去の妹とは私にとって別の存在だと言えるのです。


 しかし。他人に共有されうる偶像(先の話で言うところのフィギュアなど)と、個人的な経験に基づく偶像、つまり他人の共有を退ける偶像とは根本的に、対象に抱く感情という点で異なる。後者の場合には対象が偶像化される前の記憶や経験が主体に残るからである。それにもとづいて偶像化がなされるわけであるが、その偶像が客観的に共感を引き起こしやすい外見を持っていた場合(例えば「妹の写真」は一般的なこどもはかわいい、かわいいこども、といったような概念と照らし合わせることが出来る)、それは全くの他人にとっても偶像になりえるかもしれない。

 しかしやはりそれはフィギュアとは根本的に違うのである。この、作家の偶像を見せる際の意図のぶれは一体なんだろうか。
 フィギュア・アイドル写真と、家族写真・家族の遺骨を『idol』でひとくくりとして並置した場合、それはどのような意味を生成する場となるのだろう。

 そのような提示はどのような意味を生む場として機能し得るのか?

偶像

あおやぎなつみ『idol』考・メモ。

idol:http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/index.html
作家ブログ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/
 内、参考エントリ:http://kenchantokekon.blog.shinobi.jp/Entry/644/

---
(※“ ”内ブログからの引用。斜体にて区別)

idolとは。
偶像、信仰の対象になる像であり、実体として扱われる虚像。


私はパソコンと向き合うとき、たとえ周りに人がいたとしても、一人だという意識でいます。
それは大勢が一同に使うことを目的としたものではないというの理由もあるが、一番の大きな理由は、画面上に自分だけの実体(虚像、偶像)を作り上げてしまうからなのです。
パソコンに積まれたデータは実体ではなく、虚像だと言えるでしょう。
私が画面に向き合いデータを目にした時、データは視覚や聴覚を刺激して私の中で実体となっていく。
つまり、パソコンで見るデータは、idolということになるのです。

それがよくわかるのは、急増した「嫁」という文化です。
youtubeの普及や、ニコニコ動画などでアニメを気軽にいつでも見られるようになったことなども要因にあるようですが、実はパソコンでデータを見るということがそもそもの要因なのではないでしょうか。
上でも書いたように、偶像を個人の中で実体化することで「嫁」という自分に近い感覚を呼び起こします。
嫁には、花嫁など、一時的な夢の存在という意味も込められていたりして、妻とはまた違う現実とは少し離れた所にある言葉のように思えます。
データから享受される「嫁」もまたidolとしての存在であるのかもしれません。


 「嫁」文化(「~は俺の嫁」という定型句)はたしかに二次元世界へ歪曲したアイドル(和製英語的な意味で)信仰と見ることが出来るだろう。
 「嫁」という言葉の選択も確かに興味深い。「妻」ではなく、また「恋人」でもなく、「嫁」。確かにここでは一種の理想化がなされている。それは恋愛関係の極まりともいえる結婚への幻想である。さらに正確に言えばこれは、結婚を理想としつつも夫婦生活を拒絶するといったアンビヴァレントな心理の反映だともいえる。
 なぜなら、広辞苑(第五版)の「嫁」の項には次のようにある:「結婚したばかりの女。新婦」あるいは「結婚の相手としての女。」

 「嫁」宣言は対象と主体(宣言者)間の永遠の時間の静止である。これは「自分はこれからこのつまと夫婦生活を営む」という線的なイメージではなく、「~は自分の新づまである」という、点的なイメージとして見なければならない。「嫁」との関係において、主体は現実(実生活)を放棄しているのであり、その意味でこの「嫁」文化は極めて信仰に近い。主体にとって対象は永遠の花嫁とみなされるからである。

私にとってフィギュアは不完全な虚像です。
確かにきれいでかわいらしい形であり、見て楽しむこともできますが、そこに実体を感じてしまい、自分の中での実体を作ることができなくなってしまうのです。
自然に溶け込むフィギュアは、虚像でなく、idolでなく、フィギュアという実体であるとしか考えられません。


 実際にフィギュアを見る(触れる)ということと、画像に変換されたフィギュアを見るということの違い。
 上の文で私は括弧のなかに「触れる」と書いたが、これがもっとも決定的な相違である。辞書的な意味上において、偶像(idol)は実体に触れることは可能であるが、写像(ikon=イコン、アイコン)は実体に触れることはかなわない。

 まず、idolとikon(icon)の違いであるが、一般的に前者は偶像、後者は図像と訳される。しかしこれはあくまで辞書的な意味の違いでしかなく、現実には両者はほとんど混用されている。
 なぜかといえば、触れるという行為は対象と極めて近い(親密な)距離になったときに始めて可能となるものであり、いくら対象が像として実体を持っていたとしてもただ見ている限りではそれは画像(図像)に過ぎないというのが一点。そして決定的なのが、信仰者はなにも目の前の像や画像そのものを崇めているのではなく、その像や画像に投影された「神的なイメージ」を崇めているのである。もちろんそれに実体などない。これは例えばイスラム教等がわかりやすいが、回教は、信者が偶像そのものを崇めるようになってしまいその本質たる神がないがしろにされることを恐れてこそ、偶像崇拝を禁じているのである。

 繰り返しになるが、フィギュアの決定的な問題は容易く触れることが出来てしまう点にある。作家が述べている通り、触れられることで「そこに実体を感じてしまい、自分の中での実態を作ることができなくなってしまう」。あくまで偶像とはイメージ(宗教に於ける「神」など)のための記号でしかなく、そうでなくてはいけないのだ。

 次。
 『idol』の、アイドルグループ「AKB48」のブロマイドの写真、作家の妹の写真の写真、について。
 すでに画像となっているものををわざわざ再度レンズに通す意図がいまいち理解できずに居る。また、一部の写真で、顔部分がフラッシュで白く飛んでいるのも偶像としては致命的に思えた。スキャニングという手段もあるが。どういう意図なのか。
 すくなくともフィギュアの方法論とは並列できないと思う。

無題

4a27dd2erzPeQp4G


【架空創作表現規制禁止の法制化を求める署名】
http://www.shomei.tv/project-1025.html#detail

× CLOSE

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

最新トラックバック

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(05/28)
(05/29)
(05/31)
(05/31)
(06/01)

× CLOSE

Copyright © 沼池(ぬまち) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]