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沼池(ぬまち)

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「考えるんじゃない。感じるんだ。」――あるいは、喋らない哲学者

「絵の言葉」とでもいえるようなものがあり、それは例えば英語の詩を日本語の詩として記述するのが原理的に不可能なように、「文字による言葉」に置き換えるのは原理的に不可能である。
「絵の言葉」を無理やり文字に置き換えても、それは“直訳”にしかならない。そこでは、本質的な、大事な、なにかが欠落してしまうことになる。直訳は説明としてしか機能しないからである。


「この絵はどういう意味のものですか?」

このような問いかけには、従って、完璧に答えることはできない。その答えは上滑りな説明以上にはならない。
「絵の言葉」を読むには(その絵の本質を理解するには)、絵に対するリテラシーが不可欠であるということになる。それは、日本語を理解するには日本語の文法、語彙、慣用句などを学び、経験を積んで習得しなければならないのと同じである。


これは「思考」に対しても同様なのではないか。つまり、私たちが頭の中で思考するイメージの様々は、その思考の中でのみ完璧に振舞えるのである。それを、文字や、声や、手振りや、絵などの、メディアによって外部に露出する際には、そのメディアの限界を超える表現は剪定される。つまり外部へ具現化されない。
従って、自らの思考を完璧に記述しようとする者は、さまざまなメディアを用いて自分の表現を行わざるを得ないということになる。それでも、アキレスと亀のパラドックスのように、決して完璧な思考のアウトプットには至らない。それは99.999...% の“再現”しかなされない。
思考は完璧には共有されることはない。


しかし、それが「思想」ならばどうだろうか。無意識の奥底に存在する、人類共通の、思考。それはときには「本能」とか、ときには「イデア」などと言い表されていたりするかもしれないが、そういったものが存在するならば、「思想」は知らず知らずのうちに共有されていることになる。

あらゆるメディアが存在する以前にあったもの。
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