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よしをの震後/原・映像

福祉と創作。言葉と身体。漫画。■管理:よしを ■mail→ yoshiwoemon [at] gmail.com ■Click MENU.
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内田百閒の文章の奥行きのなさについて、試論


A「私は長い土手を伝って牛窓の港の方へ行った。土手の片側は広い海で、片側は浅い入江である。入江の方から背の高い蘆がひょろひょろ生えていて、土手の上までのぞいている。向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。」(内田百閒『冥土・旅順入場式』)

B「ふたりが急ぐふうもなく歩きつづけている通りは、ま一文字にどんどん下っていって、地平線にまで伸びている。地面全体が斜めになっている。左右にならぶ家の列は、かつては、欄干や彫像で飾りたてた華美なファサードをほこっていたが、そのファサードもずっと以前に荒れはて、石壁は腐って海綿状になり、かびで一面しみだらけだ。」(M・エンデ『鏡のなかの鏡』)

 Aの文章は近景から遠景へと視点が移るように描かれているが、「向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。」とあるように、視界が遮られている。「向う」という言い方もあいまいだ。
 一方、Bの文章では、遠景から近景へと視線が移るように描いてある。Aと同じように反復される画一的な風景が続くが、視界は遮られていない。また、文章が近景で終わっていることで、そこから主人公をめぐる描写への移行が自然になっていて、遠景の想像を補う形で、近景の想像が豊かにめぐらされるようになっている。画一的な風景が続く、ということは、近景のイマジネーションが、ある程度は遠景へも適応されるということだ。Aの文章では、さきに近景のなにもなさを言ってしまったことで、遠景もまたふさがれてしまうが、Bの文章では、茫漠とした遠景から、具体的な近景へ視点変換されることで、遠景への広がり=イマジネーションは、壊されずに保存される。その上で近景~主人公についてが、語られるのだ。そのようにして、Bの文章では、遠景と近景が補い合って、それぞれの広がりと細部とを担保するようにできている。
 対してAの文章では、近景の何もなさと、遠景の「埋まっている」閉塞感とが、互いに打ち消しあうようにして働いて、結果閉塞感が強まってしまい、視野は広がっていかない。このようにしてAの文章の焦点は、広がりや奥行き、と言った空間の方ではなく、むしろ「ひょろひょろ」というオノマトペに代表される、「私」のよるべなく不安な身体感覚・意識の方なのだろう。ということがみえる。その意味では、これは「私小説」的な感慨を描いた文章だと、いうこともできるのではないか。
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百(どぅど)

地元の地名に「どうど」という所がある。
幼少期はずっと「どうど」という音として記憶していたのだが、それが最近地図を見て知ったところによると「どうど」は漢字で「百」と書くということだった。

「百(どうど)」とは、しかし、かなり変わった読み方に思える。
でも、考えても見れば妖怪「百目」は「どどめ」とも言ったとおもうし、「どどめく」ということばもある。「百めく」と字を当てるのかどうかは知らないけど、方言というよりはこれは意外と一般的な古語なのかもしれない。
しかし、いったいなんで「百」が「どど」なのか?

「百」⇒たくさん⇒どんどんと(ある)⇒ど・ど

だろうか? ともかんがえていたが、どうもしっくりこない、と思っていたのだが、先日唐突にひらめいたことがあった。

「十(10)」のことを「とお」という(尚、この「とお」は「遠」に由来しているらしい)。
そして「百」とは「十×十」である。
すなわち

「百」=「十十」=「とお・とお」⇒「と・と」⇒「どど」

ではないか?

で、この「どど」の訛りの派生として「百(どうど)」という読み方がある、ということではないだろうか?



それだけの話なんですが。もし正確な由来をご存知の方がいたら、教えてください。
(というか、そもそも、その土地の何が「百」だったんだろうか?)

『止まらない子供たちが轢かれてゆく』へのアプローチ(2)

『止まらない子供たちが轢かれてゆく』 綾門優季 様

 初めまして。私は、9月6日19:00回の本公演を観劇させて頂いた者です。相澤良紀(あいざわ・よしき)と申します。私は今年26歳になるのですが、元々演劇に携わってきた人間ではなく、観ること自体も、今回が3回目(3種類目)くらいの、演劇については全くの初心者です。大学生の頃映像や美術は勉強していたので、その時の講師だった人で、佐々木敦さんという批評家がいらっしゃいますが、彼がtwitterで、この劇のことを紹介されていたので、興味を持って観劇した次第です。今回、劇を観させて頂いて、また終演後のトークイベントも聴かせて頂き、劇の表現と、トークで綾門様が仰っていたことが、自分なりの、問題意識と繋がることがありまして、実はトークイベントで質疑もさせて頂いたのですが(2番目に、学生さんの後に質問した者です)、あの場では意見をまとめることが出来ず、未消化になってしまいましたので、こうしてお手紙としてしたためさせて頂くことにしました。

 そもそも私にとって、この劇は「面白い」と感じられるものではありませんでした。すいません、もっと率直に言わせて頂くと「つまらない」と思いました。しかし一方で、この劇は賞を受賞されていますし、先述の佐々木敦さんや、トークイベントの田川啓介さんなども好意的な評価をされています。この違いは何だろうか、と思いました。
 気になっているのは「言葉」に関する評価です。どうやらこの劇をめぐる言説を聴いていると、皆さん話題にされているのは「言葉による表現・言い回し」とか、「言葉の不自然さ」といったことのようで、綾門さまご自身も、その点にこだわりを持って創作されていた様でした。
 しかし私の印象としては、あの劇においては、「言葉そのもの」が、皆さんが仰る程前面化していたり、重要視すべきものだとはどうしても感じられませんでした。私にとっては「小学生がああいう口調で喋るかどうか」といった事はどうでも良く、あくまでドラマ内容それ自体が重要に思えます。少なくともあの劇においては、舞台が小学校か、中学か、高校なのか、という事は小さな問題ではないでしょうか? もし小学生であることを強調したいのならば、ランドセルとか、名札、学帽といった便利な記号がありますが、結局綾門さまはそうした小道具の使用を選択されなかった訳ですから。
 しかし、「内容それ自体」なのですが、私にはここが退屈に思えるのです。まず観念的すぎると思います。綾門さまはトークイベントで、「ことばにからだが振り回されている感じがする」「ことばとからだとの拮抗がうまく作れていない」といった意味の反省を仰っていたと記憶していますが、それは当然の事だと思います。というのは、綾門さまの仰る所に依れば、「あらゆる感情は言語化できる」ということを仰っていたと思いますが、それは言葉を操れる側の主観でしか無いからです。ある対象(赤ちゃんや石など)を見て、「あ、これは○○と思っているだろうな」と感じたとしても、それはその人の主観を出ません。ということは、綾門さまがご自身の劇で小学生に喋らせても、赤子に喋らせても、老人や、木や石や、犬・猫に喋らせても、結局それらは全て綾門さまの「思い込みの言葉」でしか無いわけです。赤ん坊はそもそも言葉を獲得していません。彼の中にあるのは、何かしらの激しい起伏(それは一応は「快」「不快」と定義されるのでしょうが)だけです。
 逆に、ある気分の時に、それを自分で「かなしい」と名付けるか、「悲哀だ」と名付けるか「死にたい」と名付けるか、によって心の中に定着する気分の質は変わります。言葉の側から、その時々の感情が決まることもある。
 言葉は気分や流れ、からだといったものの本質を突くための道具ではなくて、それらを便宜的に分類し、方向指示する指標にすぎないと思います。だから観念的に言葉だけを並べても、それを発する側の気持ちが右往左往するだけで、身体的な実感に結びつかない。
 それから綾門さまは「きれいな」言葉を使うようにしている、と仰いました。つまり「薔薇」とか「檸檬」といった様な。しかしそれらは文章として、見た目が美しい言葉にすぎないのではないですか? そうした工夫が活かされるのは小説であって、演劇ではないと思います。むしろ漢語は濁音が多くて、ののしり合いが中心であるこの劇に於いては、私はすみませんが全然きれいとは思えませんでした。
 話を戻しますが、例えばカラスにはカラスの言葉があります。猫には猫の、犬には犬の。もしかすれば木にも木の言葉があるかもしれません。しかし彼らが日本語を喋らないのは、彼らの言葉が、他の言語に置きかえられない内容を示しているからだと考えることができます。それを人間の言葉、殊に綾門さまひとりの言葉へ一様におきかえるのは、認識を退屈にする作業とはいえないでしょうか?
 そもそもなぜ演劇は、身体があるのですか?
 言葉にできない流れや気分や空気、起伏といったものを表現する為に身体があるのではないのですか?
 これは演劇初心者の私の、素朴な理想論でしょうか。
 世の中を全て言葉で置きかえたいのなら、朗読劇にするか、ラジオドラマか、もっと言えば小説を書けば良いと思うのです。

 ただご自身の言葉を、他人に押しつけるのだけは止めてほしいと思いました。

 すいません、後半がただの批判の塊のようになってしまいました。私の言いたい事は以上です。創作、頑張って下さい。
2014.9.7.
相澤良紀

P.S.
 綾門さま

 お手紙を読んで下さってありがとうございます。そちらに書いた事は、まず私自身の問題意識として痛切なことがらです。今回『止まらない子供たちが轢かれてゆく』という演劇のテーマと、それから綾門さんご自身の問題意識、それらに直面しなければこの手紙は書かれませんでした。
 その意味で、この手紙は批判的な内容になっている(ならざるを得なかったのですが)のですが、私がこの劇を見て、綾門さまの考えを聴けたことは大きな意義がありました。
 ですから、私はぜひ、その言葉を綾門さまの方へ伝えたかったのです。
 もっと言うと、「伝えなければならない。」私にとってこの問題(ことばと、からだ~世界をめぐる問題)はそれくらい切実な問題として、あります。
 最後に、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』をめぐる文章は、私のブログでも平行的に書かせて頂いています。というより、この手紙もその一環としてあります。合わせてお読み頂けると幸いです。
 最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。
 感謝致します。
2014.9.8. 相澤良紀

『止まらない子供たちが轢かれてゆく』へのアプローチ(1)

6日、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』という演劇を観た。
演出家は綾門優季氏。まだ22歳らしい。すごく若い(とおもうのだが、演劇界では普通?)。

演劇はいままでほとんど観て来なかったのだが、最近身体を介した表現に関心が高く、全く偶然に知った演劇だったが、タイトルと筋、評価などに惹かれて、観に行った。

ざっくりとした印象は、作品的な完成度は高いが、内容・思想面ではまだよわいのではないか。ということだった。
そして上演後のアフタートークも含めて、この劇のことについていろいろもやもやがたまったので、ツイッターに書いた。以下、それをまとめます。

ことばとからだをめぐる考えについて、私自身がかなり敏感になっていると、かんじます。実際観終わった後はかなりつらかったです(その意味ではいい作品だったといえます)。
だから以下に述べているのは、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』への批判でもあるのですが、自分自身が抱える問題意識でもあります。


(以下、ツイッターでの発言より。一部ニュアンスを書き換えて、文章に統一を持たせている部分があります。)

---------------


『止まらない子供たちが轢かれてゆく』は評価が一様に言葉(文体?)を廻ってばかりだったのが気になった。最終的には空間と人間の身体で表現されるわけだから、脚本上の文体のディテールにこだわっていてもあまり意味がないんじゃないか? と。そして内容についてもあまり言及されていないことも。
アフタートークでは作家さんがとても言葉の表現にこだわられているらしいことは感じられたのだが、それがどうしてあのような罵倒の浴びせあいや文語的言い回しになるのかがよくわからなかった。……のだけど、さっきネットで調べたらどうやら現代演劇には口語で演るか、文語で演るかという議論があるらしい。

しかしそれもやっぱり脚本上のディテールの問題でしかないと思える。演劇に限らず、小説でも映画でも漫画でも、技法論的な議論はいつの時代も事欠かないが、それって、表面的な質にこだわるあまり肝心の内容を置いてけぼりにしてしまう議論なのではないか? と感じる。
そうした言い回しにこだわるあまり身体が置いて行かれてしまうのでは、いっそ朗読劇でもよかったのではないか? と思えた。

文語/口語という切り替えはアナログ/デジタルというような切り替えと同じで、作品の核には影響しないと思える。 そもそも演劇における言葉(文体)、というのは脚本に書かれた文章のことなのか?
演劇における言葉(文体)というのは演者の口から発せられる言葉、演者の身振り手振り表情、それらによって構成される空間の質、それらの演じられている全体のことを指すのではないか?
例えば脚本の「バラ」という文字を「薔薇」と書くか「Bara」と書くかということが文体なのだろうか。



じつは昨晩のアフタートークで質疑させていただいたのだけど、その時は言葉が足りず質問内容がうやむやになってしまった。いまここで整理しなおしたいと思う。

それは、作家さんが「赤ちゃんのセリフでもほかの登場人物と同じように書くと思う」とか、他の方の質問に対して、石などの無生物もそのように登場させると面白いかもしれないとか、そういう発言があったことについてで、つまり「どんな状態も言葉で表現できる」と考えていらっしゃることについてなのだけど、疑問に思ったのは、そもそも赤ちゃんは言語を身に着けていない、にもかかわらずその状態を言語化できると考えるのは、言語を身につけたものの側の傲慢ではないのか?」ということだった。
先ほどの内容ともリンクしてくるのだけど、演劇は身体と空間表現があってこそ「演劇」という表現として成立しているわけだから、あえて言葉になっていないニュアンスまで言葉(セリフ)にしようとする必要が演劇であるのだろうか、と思ったのだった。

ただ一方で『「小学生らしくない複雑なことを小学生は結構考えている」はず』『「考えていることを明瞭に言語化できない」だけ』(フライヤーより)という作家さんの主張は、私も賛成します。 でもしかし、この主張が赤ちゃんや石にまで、果たして敷衍できるのかという点は疑問です。
そもそも「考えていることを明瞭に言語化できない」ということは結構曲者です。果たして「明瞭に言語化できない」ことを、作家が勝手に「明瞭に言語化」してしまっていいのか。それこそ、八方手を言葉で尽くしてでも、なお言語化できない、そのあがきとかずれの方を表現すべきなのではないか。

先日佐世保で痛ましい殺人事件がありました。これと関連付けてしまうのは不謹慎なのかもしれませんが、犯行を犯した学生は正に「明瞭に言語化できない」ものを抱え込んでいたわけです。彼女は学業成績が良かったと報道されていましたが、それにもかかわらず。
言葉というのは恐ろしいもので、「明瞭に言語化できない」意識に外部から「言語」を与えられると、その意識は、あたかも初めからその感情であったかのようにふるまってしまいます。
なんだかわからないけど落ち着かない、という不定形な状態の時、「悲しいんだね」と声をかけられれば、その人の意識は言語化できない細かなニュアンスは切り捨てて、「悲しい」という感情の「型」に落ち着いてしまいます。先ほどまでの気分が本当に「悲しさ」だったのかは関係なく。
成長していろいろな言葉を知ると、過去を思い返して「あの時の状態は○○という感情だったのだな」と考えますが、それは過去の自分を現在の自分が使う言葉に当て込んでいるだけです。確かに子供は複雑なことを考えることができると思いますが、それは「明瞭に言語化できない」状態での思考です。
むしろ自分の考えを明瞭な言葉に置き換えてしまえると思うのは、言葉をある程度知ってしまった側の傲慢ではないでしょうか? 逆に、私たち自身は自分の気持ちを「明瞭に言語化」できているのでしょうか? 難解な言い回しに置き換えてごまかしているだけではないのか?

とりあえず以上です。
後半(*以下)は劇本編と直接的には関係しないですが、個人的な問題意識と関係が深い。
一つの言葉、文体によって世界を一様に均質化してしまうというのは安定的ですが多様性を殺す危ういやり方で、言葉にはそういう能力があるし、そうやって文明は発展してきたと思います。

2014年6月23日のメモ

統合ははじまりであるわけですが、統合ははじまりにすぎないということです。統合された、その先に行った先での話。その繰返し。反復ではない、また新たな関係が私と世界との間に形成される。
「開かれた」というのはあらゆる方位に無限に、ということだが、その可能性たちのある場、ある場では、かならず関係の新たな結ばれ合いが思わせられ、試みられることを経て、それは成就したり失敗したりすることで、世界へも私へもそれぞれ、可能性の結果と、そこから派生する新たな可能性への期待という形で、フィードバックされていく。
そうした模索と再認知の漣(さざなみ)のはるかとして「無限」は定置されている。そこへ到達することが目論まれているわけではなくて、そうした試行延長のあくまで結果として。

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