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沼池(ぬまち)

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a-2

  一体「暴力」とは何なのか?

 暴力とは一種のコミュニケーションである、という観点に立つと、「無情な暴力」とは一種の形容矛盾、非常にシュール、ナンセンスなものとなる。
 それが、セカイ系やラノベを支配している、あの、ある種の「ニヒリズム」とでも呼ぶしかない世界感覚・空気感なのではないか?
 机上を離れることなく練られた暴力。
 机上の空論のコミュニケーション。≒ディスコミュニケーション
 にもかかわらず、『なるたる』を物語らせている基盤は、根源にあるテーマは、「コミュニケーション」なのだ。(おそらく)
 ディスコミュニケーションを用いてコミュニケーションを語る。
 <ディスコミュニケーションを用いてコミュニケーションを語る>
 それこそが、『なるたる』で達成されているひとつの重要な事柄ではなかろうか?

 『なるたる』は、
 <あなた‐わたし>のその“間の関係性”が重要に思えるのだ。
 エヴァが<わたし>のみについての物語のように感じられるのに対して、
 部屋にこもりながら内省しているのではなく、
 人と交流しながら内省しているのだ。

 いや、ちがうかな??
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「なるたる」と俺a-1

 何から書き始めるべきか。
 俺はずいぶん、このマンガに感情移入してきた。嫌いだが嫌いな分特別視してきた。

 『なるたる』は未だに解決しないのだ。
 モヤモヤするのだ。
 なにかあるのだ。何か。腑に落ちないことが。

 あまたある“セカイ系”の最高傑作が『なるたる』だなんで、言いたい訳ではない。ないのだ。
 けれど、
 最もドライで、ナイーブでなく一見繊細で、その意味だけに於いて極めて暴力的な面のみが先鋭化されてリアルで、他の部分は稚拙で、そのギャップがたまらなくその当時、“ゼロ年代”? にさしかかって、学生になりたてだった俺にはとても共感的で、モロく、刺激的で、無意識にゆさぶりをかけ、いってみればカッコつけ、クールぶって、中二病で、どうしようもなく、そしてそのどうしようもなさのまま、放り投げるでもなく、のりこえるでもなく、わけわからなくなるでもなく、ちぢこまるでもなく、達観するでもなく、ただ、非常に異常に、サディスティックなまでに客観的に自然に物語を持って行った。 自 然 に 終わらせてしまった(?)

 それが、『なるたる』の異様な“力”だろうか。

m氏への手紙(「まどか☆マギカ」と「フラクタル」)

参考:http://www.ippongi.com/2011/05/08/fractal/

2010/9/17

»
ある連続性の中で人は変化していくもので、しかも下に向かって引力が働いているので堕落していくときは気付いてもなかなかなかなか抜けられないということがある。
»
飛行できる生物だとして、何か羽にほんのわずかでも不具合がある場合、始めこそは気にならないかもしれないが、後々になって累積がついてやがて落ちていってしまうということがある。
»
そういうときに、羽を一時的に休めようとか、悪い部分を修復しようと思っても、それには時間がかかるしそれをしている間も落下は止められないわけで、結果的に療養中の人でも、第三者からはただ何もせず引力に身をゆだねているようにしか見えない。
»
そういうときに周りの目を気にして無理に飛翔を再開しようとすれば、さらに深刻に羽を痛めることになる。

神野智彦『創造の欲望をめぐって』解釈/梅沢和木再論(後半)

(※《前半》からお読み下さい)



という訳で、私としては梅沢の仕事に2つの流れを見ます。

ⅰ:「場」としての梅沢作品

 ↓



ⅱ:「キャラ」としての梅沢作品

 ↓




「解体されるキャラ」展のアーティストトークの中で梅沢は次のように語っています。
「でもあれもかわいいなと思ってやってるんですよね。《略》ウィンドウズの露骨な×とか、なんでVISTAになって、こんなコテコテな(笑)みたいな。そういうの結構、愛着わくんですよね。逆に人間らしいというか。
だからキャラ的な扱い方と結構一緒に扱っている部分もあって、自分の好きなキャラと、その隣にこのかわいい×ボタンを置くみたいな。」(「創造の欲望をめぐって」付録「「解体されるキャラ」展 梅沢和木トークショー」より)

この発言からは、様々な単位の記号に「キャラ」を見出しては楽しんでいる梅沢の姿が想像できます。梅沢のキャラに「最小単位くん」というのがいますが、その名のとおり、キャラを構成する最小単位(と梅沢が考える要素)だけで構成されたミニマルキャラです。

伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド』の中で「キャラの自律性」を論じ、また、東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で「大きな物語」の凋落と「小さな物語」の氾濫に言及しますが、「キャラ」とはそうした「小さな物語」として自律的にふるまえる「人格・のようなもの」すべてに対して用いられる名称のことだといえます。

「最小単位くん」から『Untitled』まで、このミクロからマクロレベルまでの深いパースペクティヴに貫かれた多世界的な宇宙観こそ、梅沢の創造の源泉なのでょう。

(一部敬称を省略させていただきました。この場を借りてお断りさせていただきます。)







◎主な参考文献
神野智彦「創造の欲望をめぐって ―キャラ・画像・インターネット―」(2011)
伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」(2005)
東浩紀「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」(2001)

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