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沼池(ぬまち)

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踊り場あるいは階段について

踊り場というのは奇妙な空間だと思う。

まず名前が変だ。なぜ「踊る」のか? 何かしら舞台的な印象をいだかせ、したがって祭儀的な場だという印象を受ける。

ところで階段というのはすごい場所だ。横方向の運動を縦方向の運動に変換する装置だからだ。反重力的な場である。階段を上る者は人間の機能以上の運動を行っていることになる。(とくに、階段が「斜面」ではなく、段差の集積だということも重要だと思う。)
ある種の障害として、階段を上れないという人がいる。
階段を上るという行為が、このように反自然的なものだとするなら、それも頷ける?
(ところで家で飼っている犬は階段を上れない。)

(それでふと思ったが、これは山も同じだ。
このことと、古来より山が神聖とみなされていることとは同じなのではないか?)

ところで踊り場である。以上のように階段それ自体も十分、運動の変換装置として特殊な働きをしているに、踊り場はそこにさらに複雑な運動変換を付け加える。
方向転換だ。
踊り場を通過することで今までの運動が全く逆のベクトルに捻じ曲げられる。
右が左に。
しかも、踊り場に立って階段を見てみよう。
そこには「下り」と「上り」の運動の両方を見ることができる。
踊り場では、垂直方向の運動が統合される。
上昇と下降という、2つの異なるベクトルを繋ぎ合わせているわけだ。
そういう「場」として踊り場はある。
「場」として、ということは多分重要である。
なぜなら螺旋階段でも同様の運動変化を体験できるが、そこには(非ユークリッド的な)「直線」しかなく、
「場」が無いからだ。
螺旋階段では上記の運動変化を意識することはできない(難しい)。
運動の変換を意識的に体験させられる場。
それが踊り場となる。

先に、「段差であることが重要」とも書いたが、
段差も極端に言えば一つ一つが小さい「場」である。
斜面は水平のベクトルが滑らかに徐々に垂直方向へ変換されてゆくが、
階段ではひとつの段差を踏み越えるたびに絶えず垂直方向の運動を意識させられる。

 水平→垂直↑水平→垂直↑水平→垂直↑水平→垂直↑・・・・・・

という、いわば0か1かのデジタル的な処理、が要求されていることになるわけで。
これは踊り「場」も当然同様。

奇妙な場である。
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a-2

  一体「暴力」とは何なのか?

 暴力とは一種のコミュニケーションである、という観点に立つと、「無情な暴力」とは一種の形容矛盾、非常にシュール、ナンセンスなものとなる。
 それが、セカイ系やラノベを支配している、あの、ある種の「ニヒリズム」とでも呼ぶしかない世界感覚・空気感なのではないか?
 机上を離れることなく練られた暴力。
 机上の空論のコミュニケーション。≒ディスコミュニケーション
 にもかかわらず、『なるたる』を物語らせている基盤は、根源にあるテーマは、「コミュニケーション」なのだ。(おそらく)
 ディスコミュニケーションを用いてコミュニケーションを語る。
 <ディスコミュニケーションを用いてコミュニケーションを語る>
 それこそが、『なるたる』で達成されているひとつの重要な事柄ではなかろうか?

 『なるたる』は、
 <あなた‐わたし>のその“間の関係性”が重要に思えるのだ。
 エヴァが<わたし>のみについての物語のように感じられるのに対して、
 部屋にこもりながら内省しているのではなく、
 人と交流しながら内省しているのだ。

 いや、ちがうかな??

「なるたる」と俺a-1

 何から書き始めるべきか。
 俺はずいぶん、このマンガに感情移入してきた。嫌いだが嫌いな分特別視してきた。

 『なるたる』は未だに解決しないのだ。
 モヤモヤするのだ。
 なにかあるのだ。何か。腑に落ちないことが。

 あまたある“セカイ系”の最高傑作が『なるたる』だなんで、言いたい訳ではない。ないのだ。
 けれど、
 最もドライで、ナイーブでなく一見繊細で、その意味だけに於いて極めて暴力的な面のみが先鋭化されてリアルで、他の部分は稚拙で、そのギャップがたまらなくその当時、“ゼロ年代”? にさしかかって、学生になりたてだった俺にはとても共感的で、モロく、刺激的で、無意識にゆさぶりをかけ、いってみればカッコつけ、クールぶって、中二病で、どうしようもなく、そしてそのどうしようもなさのまま、放り投げるでもなく、のりこえるでもなく、わけわからなくなるでもなく、ちぢこまるでもなく、達観するでもなく、ただ、非常に異常に、サディスティックなまでに客観的に自然に物語を持って行った。 自 然 に 終わらせてしまった(?)

 それが、『なるたる』の異様な“力”だろうか。

m氏への手紙(「まどか☆マギカ」と「フラクタル」)

参考:http://www.ippongi.com/2011/05/08/fractal/

2010/9/17

»
ある連続性の中で人は変化していくもので、しかも下に向かって引力が働いているので堕落していくときは気付いてもなかなかなかなか抜けられないということがある。
»
飛行できる生物だとして、何か羽にほんのわずかでも不具合がある場合、始めこそは気にならないかもしれないが、後々になって累積がついてやがて落ちていってしまうということがある。
»
そういうときに、羽を一時的に休めようとか、悪い部分を修復しようと思っても、それには時間がかかるしそれをしている間も落下は止められないわけで、結果的に療養中の人でも、第三者からはただ何もせず引力に身をゆだねているようにしか見えない。
»
そういうときに周りの目を気にして無理に飛翔を再開しようとすれば、さらに深刻に羽を痛めることになる。

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