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沼池(ぬまち)

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m氏への手紙(「まどか☆マギカ」と「フラクタル」)

参考:http://www.ippongi.com/2011/05/08/fractal/

こんにちは。お返事を書かせていただくといったままこんなにも時間が経ってしまったのは、考えるにつれて自分の中でこのふたつの作品を比較する必然性が段々と説得力を持たなくなってしまったからでした。それから、焦点がなかなか定まらなかったということもありますが。
こんなことを書いてしまうと元も子も無いのですが、正直自分には、この2作品を比較して論じる必要をあまり感じません。私の場合は、たまたまその時期に観ていたアニメがこの2種類だけだったので、この2本のお話をするわけですが、それは何本ものアニメを観た結果としてこの2作品に絞ったわけではありません。この2作品は私の中では全く別の作品で、あまり対照的なもののようには考えていないということだけははっきりさせておきたいと思います。

前置きが長くなってしまいました。上記のようには書きましたが、両者はともに何かしらかの大いなるものに立ち向かっていく(そして克服するまでの)過程を描いた物語と取れます。そうしてみると両者の示す、立ち向かい方の違いが、そのまま今の日本に生きる(これらのアニメを観るような)若者たちが少なくとも2種類の人生観の下で生活しているということの示唆になっているのではないか。そういう観点から両作品を考えてみます。
私はこの2作品を比較するに当たって、描かれている「家族関係」と「身体観」との違いに注目してみたいと思います。

結論からいうと、
まどかマギカとは、全体的にヴァーチャルリアルな物語だと思います。
対してフラクタルは、「ヴァーチャルの中のリアル」を探求した物語だと思います。

まどかマギカには身体観が希薄です。魔法少女たちはそもそも、「人間ではない」。彼女らの魂=本体は小さな石の中に納まって、結果彼女たちは痛みからも遠のき、常人離れしたアクションを繰り広げます。まるでゲームをプレイするように意識と身体とは乖離し、時に意識は時間をも跳躍します。リセットの利く身体と、時空間の制約を受けずにメタレベルから俯瞰する意識。この構造はかつて東浩紀氏が「ゲーム的リアリズム」と定義した技法そのままです。
結果まどかマギカから受ける啓発とは、ヴァーチャルな世界に身を委ねて生きていくことの自由と、苦難とを示しているように思えます。仮想的身体観に身を委ねれば時空を超えることは容易で、修復ややり直しも簡単に行える。人はほとんどの肉体的束縛・関係性から解放されて、血や性の無い、極めて浮遊的な、自由度の高い世界を生きることになる。しかしその反面、孤独は大きい。私たちはなににも縛れることのない究極の「個」として、あくまで自分の責任で選択をしていかなければならない。あらゆる人は「自分だけの神」を創造することでしょう。寄る辺のない世界のよりどころとして。
まどかマギカでは「性」や「血」の関係性は大変希薄です。主人公陣は全員女性(しかも少女)であり、加えて彼女たちのほとんどは孤児同然の状態で生活しています。唯一まともな家族の描写がある主人公ですら、家族はほとんど彼女の行動選択に関わってきませんし、また彼女も家族へ強く関わっていくことはありません。まるで「フリ」のような、表層的な関係性が描写されているだけのようにみえます。
まどかマギカはヴァーチャルリアリティ(=魔法少女としての生)を称揚(それは新しい現実の捉え方であり、称揚されてしかるべきものです)し、しかしその代償として究極の「無関係性」を恐ろしいくらい正直に抱え込んでしまった。
この「正直さ」が、私がまどかマギカに感じる「危うさ」です。そしてそれゆえに、私はまどかマギカを素直に信用することができません。

そこで、フラクタルの話になりますが、こちらは「フラクタルシステム」というヴァーチャルリアリズムを保障するシステムの下で、改めて現実の肉体観を回復しようとした話だとはいえないでしょうか。つまりまどかマギカとはベクトルが逆向きなわけで、そこのところが、一部の人には退行的に見えたのかもしれません。しかし、これはただ単純にテーマの方向性が違うというだけであって、それによって作品の優劣が決まるわけではないでしょう。
ここでは物語の途中経過は省きますが、この物語ではヴァーチャルな身体と現実の肉体との関係性が丁寧に思索され、描写されていると思います。結果的に物語自体は「始まりの終わり」で終わってしまいましたが、つまりまだまだ思想としては途上にあることを感じさせるわけですが、現実世界と仮想世界との共存のありようを肯定的に捉えようとしている点で私は好きです。何より、現実の肉体観の回復がなされているところがとても好いと思っています。仮想現実世界は精神の世界です。精神的な傷によって心が壊れてしまった少女が、主人公の少年との、肉体的な交流を経ることによって、長い長い「眠り」の時間から初めて回復する。少女が逃避していた仮想現実世界=旧フラクタルシステムはこの過程でいったん崩壊し、現実世界との新たな関係を構築して再起動する。そうして少女の肉体と精神も初めて、統合されて長い眠りから醒める。この「再生」を経て初めて、少女は現実と向かい得るだけの強さを獲得するわけですが、これは従来の「セカイ系」と呼ばれる物語の多くが、最後には精神世界的な宇宙空間へ飛び去っていってしまうのとは逆の運動です。最終話で彼らは確かに宇宙空間へと開放されますが、それはふたたび帰還することを前提とした(とはいえ帰還できなくなる可能性もはらんだ)一時的な旅行だったのでした。
確かにかれらの冒険の過程はぐだぐだで、最終的な選択も妥協的なものに見えます。私にもフラクタルに示されている世界(政治?)のあり方がそれほど優れたものであるとは思えません。ただそれでもフラクタルは「家族」という関係性を肯定的に捉えなおそうそしている。その一点があることで、私はフラクタルをまどかマギカより評価しています。
第2話あたりでネッサが言った「クレインは私の家」ということば、そしてクレインとフリュネとがこれから築いていくであろう関係。クレインの父親は実の息子より機械を選びましたが、クレインは父親とは別の行き方を模索しようとしている。

まどかマギカとフラクタル、どちらの思想が優れているのか私には分かりません。正直なところ、五十歩百歩なんじゃないかと思います。そして、どちらかと言うと「現代的」で現実的なのは、まどかマギカなんだろうなあと思います。
カップルはやがて泥沼の関係に崩落していくでしょうか。私には分かりません。
仮想現実社会は旧い「イエ」を解体し、個と個とは新しい関係性を結びなおすのでしょうか、あるいは「無縁」な社会がそれなのか? 私には分かりません。
しかし、それでも、あらゆる不安をこえて、わたしを感動させているのは、フラクタルの描いている「関係」がつくる力です。フリュネがクレインのために祈りを捧げることで、フリュネの心は統合されるのです。「昼の星に 願いを捧ぐなら クレインの 笑顔よ永久にと。」このことばの持つ、大きな力です。誰かのために心を本気で動かした時、フリュネの心は初めて統一された。少なくとも他人を思うということが、心の破れた一人の少女を、時空を超えて回復させたわけです。もちろんそのためには「父殺し」という大いなるイニシエーションが必要だったわけですが。しかしこれは、まどかマギカの少女たちがいくら他人のために「願い」を捧げても、彼女たちは悲劇的にならざるを得なかったのと対照的ではないでしょうか。

まどかマギカには、未来が無いように感じられます。
アケミホムラは遠からず消滅する運命のようだし、
カナメマドカは「神」として一貫してしまっています。
私たちは一体この物語の、何に希望をみればいいのでしょうか。
対してフラクタルは、非常に不安定ではありますが、未来に満ちています。
フリュネとクレインとがこれからどういう関係作っていくのかは、全然わかりません。不幸になるか、幸福になるか。予想がつかない。
でもだからこそ、私たちは二人に希望を託せるのではないでしょうか。
世界がどんなに妥協的であろうと、二人の関係性までが妥協的になるわけではありません。何よりそれは、この現実にもそのままあてはまることです。
死の可能性は、ひとつだけではありません。

そうおもうからこそ、私はフラクタルを、評価しています。

長文失礼しました。

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