忍者ブログ

沼池(ぬまち)

距離を測る。■管理:ヨシヲエモン ■mail→ yoshiwoemon [at] gmail.com ■Click MENU.
MENU

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

詩について(仮)

「詩」は、本質的なレベルでは、「イメージ」を伝えるものでは無いとおもう。
「イメージ」っていうのは、視覚はもちろん、聴覚、味覚嗅覚触覚、つまり他の感覚のクオリアで代替できる代物という意味だが。

「詩」は、本質的には〈「詩」そのもの〉を、つまり〈言葉としての言葉〉、いわば〈言葉のクオリア〉とでもいうようなものを、伝えるためのツールだと思う。

間違っても、わかりやすい比喩で形容できるようなもの、言い表せるようなもの、を表現・伝達するためのものとしては、「詩」は機能しているのではないはずだ。

本来的には「不可知」なもののために機能していなければならない。そうでなければ「詩」としては機能していない。

そんな風に思う。



それから、宇宙に中心は無い。
PR

人形

「人形だ」

最近は、男の描く美少女の像が、「萌え」の記号が、厭だ。
いや、前から惹かれる反面、どことなく引いてはいたんだけど。

やっぱりあれは、ただのハリボテで、ただのうすっぺらな着ぐるみだってことだ。

あれには生理もこなければ、感情の細かな起伏も持ち合わせていない。
うーん、
人形だ。
だから、人形としては、おもちゃとしては、面白いのだけど。

・・・
鬼頭莫宏「なるたる」は、その人形たちに対する筆者のヒステリーを描いた漫画だった
のではないかと思う。
虚勢不安とか、異性化願望とか、そういうものに対する憤りとか。憤りへの憤りとか。



きっと、男性にしか扱えないテーマなんだろうけど、
あまりにもこどもすぎやしないか?
もういいやって、
ほうりなげられればいいんだけど、
それができないのか、なかなか。
じぶんのなかのコドモはもういいやとは、いってくれないか。
じぶんのなかのこどもに、その着ぐるみを着せて、人形にして
オナニーして、遊んで気持ちいいのか。
そうか。
そうか。
じゃあもう行こう。

あなたはみちゃだめよ。

「ミクダヨー」(2012.12.8ツイッターより)

今知ったけど、「ミクダヨー」って興味深いな。「まんがのおばけ」(伊藤剛)(※1)そのもの。

「ミクダヨー」みたいなムーブメントが起きること自体、日本のアニメ・サブカルの爛熟(と腐敗)を象徴していると思う。

現実のスピードが想像力を超えちゃってるかんじ。ミクダヨーが主体のないムーブメントだってことがそれを物語ってる。

みんな無意識的には感じていることなんだけど、それが意識的な表現にまで昇華されないうちに、そのままの「無意識的な表現」として社会に流出してしまった感じ。よくないと思う。

・・・今までも「邪神モッコス」とか、「チャクラ宙返り」とか、似たようなのはあったが、「ミクダヨー」にいたって、高度に洗練されている。ねんどろいどの「初音ミク」と「ミクダヨー」とを比較してみると良い。(※2)

この、つねにメタレベルを志向してしまうところが、「キャラ」の本質的なところなんだろうとは思う。

「初音ミク」→「ミクダヨー」の変遷の肝は、「中に誰もいませんよ」→「中に人が入ってるんだよ」(ニコ動のコメントより)の変遷だということだと思う。(※3)



――――――――――――
※1・・・伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』参照。
※2・・・というか、ねんどろいど化されてしまったという事実自体が、この手のデザインの中でも特筆すべき存在として扱われていることを物語っている。
これは、「初音ミク」というキャラ自体の、自律度の高さ(「キャラの自律性」とは、伊藤剛の語。※1参照)が多大に影響していると思う。

これは、いわゆる「作画崩壊」されてしまったデザインを、新しいセンスとしてポジティブに扱っている運動としてとらえることができる。作画崩壊ネタは、ネットではアニメやフィギュアのクラスタを中心にして積極的に揶揄され、取り上げられているテーマである。それは、「キャラ」という、自律的にふるまいながらシミュラークルを形成していくメディアならではの現象といえないだろうか。
記号的な「キャラ」が、不特定多数の匿名的な人の手を何重にも介することによって、非‐記号的なイメージとして再翻訳される。そこに再生産されるのは、明らかに、キッチュ以外の何ものでもないのだが、しかしそこには畸形を眺めるときの背徳的な楽しさがあるといえる。

※3・・・もともとキャラの背後(=「中」)には作り手、声優、などの多数のクリエイターが存在している(一般的に想定されるのは声優だろうか)。消費者は普通、それらの人間を存在しないものと「設定し」て、キャラを実在しているようなものとして扱い、楽しんでいる。これは多分に自覚的な行為であり、「中に誰もいませんよ」とはその反語である。
では、「中に人がはいっているんだよ」とはどういうことだろうか? まずこれは、着ぐるみの初音ミク(=「ミクダヨー」)に対してのコメントであることに留意したい。つまりこの場合には、”着ぐるみに入ることができるようなあらゆる人物”がその背後に連想されてしまうのである。つまりそれは、クリエイターでもあり消費者でもありうる、匿名的な「一般のだれでも」である。それは詰まるところ、「俺」=〈楽しむ主体本人〉が(自分自身によって)「中の人」に想定され得てしまうという事を表している。
※2への補足的な形でいえば、キッチュなキャラと「俺」とを同一視するこの視座は、自分個人に始まって、自らを含む文化クラスタ全体へまで及ぶ大規模な「自虐ネタ」として、この現象が機能していることを示しているといえる。

ツイッターより(2012年10月19日付)

○ネットをしているとき大切なのは、ネットに全く、あるいはほとんど繋がっていない大勢の人たちのことを考えることだと、最近思う。

○それがある意味で「メディアリテラシー」ということなのだと思う。

踊り場あるいは階段について

踊り場というのは奇妙な空間だと思う。

まず名前が変だ。なぜ「踊る」のか? 何かしら舞台的な印象をいだかせ、したがって祭儀的な場だという印象を受ける。

ところで階段というのはすごい場所だ。横方向の運動を縦方向の運動に変換する装置だからだ。反重力的な場である。階段を上る者は人間の機能以上の運動を行っていることになる。(とくに、階段が「斜面」ではなく、段差の集積だということも重要だと思う。)
ある種の障害として、階段を上れないという人がいる。
階段を上るという行為が、このように反自然的なものだとするなら、それも頷ける?
(ところで家で飼っている犬は階段を上れない。)

(それでふと思ったが、これは山も同じだ。
このことと、古来より山が神聖とみなされていることとは同じなのではないか?)

ところで踊り場である。以上のように階段それ自体も十分、運動の変換装置として特殊な働きをしているに、踊り場はそこにさらに複雑な運動変換を付け加える。
方向転換だ。
踊り場を通過することで今までの運動が全く逆のベクトルに捻じ曲げられる。
右が左に。
しかも、踊り場に立って階段を見てみよう。
そこには「下り」と「上り」の運動の両方を見ることができる。
踊り場では、垂直方向の運動が統合される。
上昇と下降という、2つの異なるベクトルを繋ぎ合わせているわけだ。
そういう「場」として踊り場はある。
「場」として、ということは多分重要である。
なぜなら螺旋階段でも同様の運動変化を体験できるが、そこには(非ユークリッド的な)「直線」しかなく、
「場」が無いからだ。
螺旋階段では上記の運動変化を意識することはできない(難しい)。
運動の変換を意識的に体験させられる場。
それが踊り場となる。

先に、「段差であることが重要」とも書いたが、
段差も極端に言えば一つ一つが小さい「場」である。
斜面は水平のベクトルが滑らかに徐々に垂直方向へ変換されてゆくが、
階段ではひとつの段差を踏み越えるたびに絶えず垂直方向の運動を意識させられる。

 水平→垂直↑水平→垂直↑水平→垂直↑水平→垂直↑・・・・・・

という、いわば0か1かのデジタル的な処理、が要求されていることになるわけで。
これは踊り「場」も当然同様。

奇妙な場である。

× CLOSE

カレンダー

10 2017/11 12
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

最新トラックバック

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(05/28)
(05/29)
(05/31)
(05/31)
(06/01)

× CLOSE

Copyright © 沼池(ぬまち) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]