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沼池(ぬまち)

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2014年6月23日のメモ

統合ははじまりであるわけですが、統合ははじまりにすぎないということです。統合された、その先に行った先での話。その繰返し。反復ではない、また新たな関係が私と世界との間に形成される。
「開かれた」というのはあらゆる方位に無限に、ということだが、その可能性たちのある場、ある場では、かならず関係の新たな結ばれ合いが思わせられ、試みられることを経て、それは成就したり失敗したりすることで、世界へも私へもそれぞれ、可能性の結果と、そこから派生する新たな可能性への期待という形で、フィードバックされていく。
そうした模索と再認知の漣(さざなみ)のはるかとして「無限」は定置されている。そこへ到達することが目論まれているわけではなくて、そうした試行延長のあくまで結果として。
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ツイッターより、断片2つ

『本音とタテマエなのだ。世の中所詮。建前の後ろには必ず・必ず「本音」がある。絶対。それをシカトすること自体が暴力となんだきっと。「暴力」のはじまりなんだきっと。』
(7:33 PM - 16 May 2013:https://twitter.com/yoshioemon/status/334979876274708480


『でも体がなければ自我というものもないとおもう。自我や意識なんてものは体に付随していて、体と共に形成された、自然界の「気」の流れの「しこり」のようなものなだけだと思う。』
(2:10 AM - 23 May 2013:https://twitter.com/yoshioemon/status/337254192026619905

杉浦日向子『狼の眉毛の話』(『百物語』所収)及び民話『狼の眉毛』について、ノート


(芸術鑑賞ということについて)

① 空間・構造が正確に把握されているか
(創造すべきものについて真摯な姿勢で取り組めているのか。手を抜いてはいないか)

② 作品を通して思想・価値観のようなものをかんじられるか
(イメージの魅力のみで描かれていたり、単なるグラフや広告・プロパガンダであったりしないか)

③ 制作された時代にふさわしい、またはそれを超え得るような認識があるか
(作家は自身が生きている時代と向き合って、それを考えながら生きているのか。自己欺瞞はないか)

④ 時代・世間・自我にとらわれてはいないか
(作家は、自分とそれを取り巻く環境を認識したうえでそれを超えようとしているのか。無意識を信頼しているか)

⑤ 現実を重層的・多角的に認知しているといえるか
(一面的・妄信的になっていないか。「分からない物は認めない」「見たくない物は見ない」という姿勢ではないか)

『バナナブレッドのプディング』大島弓子

「つまり あなたはあ 近親相姦願望はとどまるところ胎内復帰後退性思考だというのね」
「そうです」
「じゃ まさかあなた それは同性愛思考に結びつくなんていうんじゃないでしょうね」
「そのとおりです」



 大島弓子の作品には、こころが崩れてしまうヒロインが沢山でてくる。
 『八月に生まれる子供』、『ダリアの帯』とかが有名だけど、他にも同趣異題の作品はいくつかある。概して、大島作品のヒロインたちは、どこかおぼつかなく、それこそフロイト的な意味での「自我」の形成との対決に曝される場合が非常に多いような気がする。

 『バナナブレッドのプディング』
 そしてこの物語の主人公は山の中の精神病院送りにならず、きっと救われるだろう。
 そして彼女を取り巻く全ての人たちも。
 彼女が彼女の周囲の人たちを救い、彼女の周囲の人たちもまた彼女を救うので、その2つは同時におしまいまですすむ。『バナナブレッドのプディング』の複雑さは、そういうところに起因しているとおもう。


 私は新潟教授に一番共感してしまう。
 最後、泥酔してぶっ倒れた教授は、果たして救われた、のだろうか?

 衣良と教授とは、実のところ光と影のような関係ではないか。俺が教授を贔屓目で見ているだけかもしれないが、衣良の影つまり補償的な面として、新潟教授が存在しているようにおもう。
 だからして、衣良が救われるならばそれは教授の救済をも意味していることになる。最終章の副題「お酒の力を借りて・・・」が、教授のことを指しているようにとれるのも興味深い。お酒の力をかりているのは、衣良ではなく、峠でももちろんなく、教授と、それからさえ子&哲学科3年なのだ。
 こういう風に考えたらどうだろう。教授が「お酒の力を借り」たから、衣良は最終的な転機を迎えることができ、さえ子も「お酒の力を借り」たので、峠は衣良を迎え入れることができたのだ、と。
 『バナナブレッドのプディング』では、こうした相互性・相関性のようなものが興味深く描かれる。

 この記事冒頭に引いた、作中では最終頁直前に描かれている、さえ子と哲学科3年との会話がある。この難解(?)な議論は、何のことだろうか。
 表面的には、さえ子の恋愛感情に根ざした一連の奇行に対する評価として読める。フロイト風だが、適当に言葉を連ねただけのような「じゅずつなぎ思考」。
 そうだろうか? この直後に衣良が同じ晩に見た夢が語られて物語は幕を下ろす。であるならば、この2つの間に何らかの関連性を見出さずに本を閉じてしまうだろうか? というか、要するにそこを「読まない」なんて、面白くないってことなのだが。
 結論から申せば、この一見奇天烈な「じゅずつなぎ思考」の分析は、そのまま衣良に当てはめることができるだろう。

 「近親相姦願望」とは、衣良の沙良に対する強い依存のこと。そしてそれは同時に「同性愛思考」でもある。そして、それを通じて、衣良の、根強い「胎内復帰後退性思考」が表現されている。

 もちろん、どう読むかは読む人の勝手で、これは1つの納得の仕方でしかない。そしておれは(が)、ひとつの「青写真」として、この文章を完結させたいと思っているだけなので、他の人には全然関係なかったり、または興味深かったりするだけかもしれない。

 閑話休題。近親相姦願望=胎内回帰願望=同性愛願望とつなげていった時に見えてくるのは、つまり、「娘の、母との同一化願望」ということではないだろうか。衣良にとっては〈母=姉の沙良〉で、そして沙良こそが衣良にとっては、だれよりもいっそう「衣良自身」だった。


(※お詫び:以下に続く文章ですが、私よしをが、作品を誤認して書いていました。作品論としては不適切な文章でしたので撤回させていただきます。失礼致しました。詳しくはコメント欄をご覧下さい。)




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