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よしをの震後/原・映像

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内田百閒の文章の奥行きのなさについて、試論


A「私は長い土手を伝って牛窓の港の方へ行った。土手の片側は広い海で、片側は浅い入江である。入江の方から背の高い蘆がひょろひょろ生えていて、土手の上までのぞいている。向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。」(内田百閒『冥土・旅順入場式』)

B「ふたりが急ぐふうもなく歩きつづけている通りは、ま一文字にどんどん下っていって、地平線にまで伸びている。地面全体が斜めになっている。左右にならぶ家の列は、かつては、欄干や彫像で飾りたてた華美なファサードをほこっていたが、そのファサードもずっと以前に荒れはて、石壁は腐って海綿状になり、かびで一面しみだらけだ。」(M・エンデ『鏡のなかの鏡』)

 Aの文章は近景から遠景へと視点が移るように描かれているが、「向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。」とあるように、視界が遮られている。「向う」という言い方もあいまいだ。
 一方、Bの文章では、遠景から近景へと視線が移るように描いてある。Aと同じように反復される画一的な風景が続くが、視界は遮られていない。また、文章が近景で終わっていることで、そこから主人公をめぐる描写への移行が自然になっていて、遠景の想像を補う形で、近景の想像が豊かにめぐらされるようになっている。画一的な風景が続く、ということは、近景のイマジネーションが、ある程度は遠景へも適応されるということだ。Aの文章では、さきに近景のなにもなさを言ってしまったことで、遠景もまたふさがれてしまうが、Bの文章では、茫漠とした遠景から、具体的な近景へ視点変換されることで、遠景への広がり=イマジネーションは、壊されずに保存される。その上で近景~主人公についてが、語られるのだ。そのようにして、Bの文章では、遠景と近景が補い合って、それぞれの広がりと細部とを担保するようにできている。
 対してAの文章では、近景の何もなさと、遠景の「埋まっている」閉塞感とが、互いに打ち消しあうようにして働いて、結果閉塞感が強まってしまい、視野は広がっていかない。このようにしてAの文章の焦点は、広がりや奥行き、と言った空間の方ではなく、むしろ「ひょろひょろ」というオノマトペに代表される、「私」のよるべなく不安な身体感覚・意識の方なのだろう。ということがみえる。その意味では、これは「私小説」的な感慨を描いた文章だと、いうこともできるのではないか。
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