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沼池(ぬまち)

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うなづく

現在武蔵美術大学映像学科進級制作展で展示している、私の作品(冊子)『うなづく』のドキュメントファイルをフリーで配布することにしました。


『うなづく』のデータ配布は終了しました。(2009/10/28)



以下、ダウンロード版うなづく用に新たに書いたあとがきから抜粋。


---

ことばには、本当によく助けられている。依存しすぎといえるかもしれない。

うなづくの序文でも書いたように、ことばとはミトコンドリアのようなもので、

決して自分の内奥から分離してきたものではない。

それは、外にあって、それは言ってしまえば社会そのもので、自分がオギャーと

生まれてきたときに、母親から分離して、ひとつの「個」となったときに、体に

ガッシとひっついたようなものだ。

その言い方はちょっと正しくないかもしれない。

自分が、自分という「個」として成立してしまったので、社会で生きていくために

吸収していかざるを得なかったもの。吸収することで、「考える葦」こと人間として

豊かに生き生きと暮らせるための、一種の道具。武器。

それがことばです。


とまあ、なんでこんなに「ことば」というものについて長々と書いているかというと、

自分がこの本をつくろうと決めた辺りからずっと考えていて、そして今も考えている

ことが、つまりはそういうことだからです。

うなづくのあとがきには、映像には映像のことばというものがある。それは「クオリオ」

などと呼ばれている・・・・・・みたいなことを少しだけ書きましたが、つまりここで言っている

「ことば」とは、単純に言語(language)や文字のことだけじゃなくて、もっとひろく、

「思考するための道具となるもの」程度の意味だととらえてください。

考え、それを表す手段は何も言語や活字だけではありません。文字がなかった頃は

先人たちは絵を描いて意思の伝達や共有を行ったわけですし、動物たちは言語以前の、

人間で言えば叫び声みたいなのにあたる、鳴き声の調子や、それだけじゃなくて種によっては

ヒトには聞こえない超音波だとか、光や匂いなんかでコミュニケーションをとっている奴も

いるわけです。


そんな風に考えていると、ものを伝えられる手段は言語だけだ、なんて考えは逆にひどく

傲慢で偏狭なもののようにも思えてきます。

なにより自分は一応美大生なのだから、例えば絵とか、例えば映像とか(だけ)で

ものをつたえられないかなーと考えるのは、自分にとっては至極当然のなりゆきだった

ようです。

というのも、言語や文字というのは、たぶん本来、最も合理的に効率よく思いを伝えて

残すという、そういうことに特化したツールだからです。

人間社会は言葉偏重ですが、言語が伝えるのを得意とするイメージがあるならば、

当然、例えば絵が伝えるのを得意とするようなイメージもまたあるわけです。

そういうことで、言語がカバーしきれない、不得手とするような、頭の中のもやもやを、

色や線や光や音で表現してやろうとしたのが、きっと芸術というもののおこりなんだと

思います。
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