忍者ブログ

沼池(ぬまち)

距離を測る。 ■mail→ yoshiwoemon [at] gmail.com ■Click MENU.
MENU

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

しのびいたむ。


 今日昼間知人と散歩しながら、通り過ぎたわきの家にかわいい猫がいたので「猫だ、かわいいね」といったのだけど、その知人は「猫はかわいいけど、すぐひっかくから嫌だ。犬の方がいい」ということをいって、「猫はひっかくけど、犬はなめるだけだから。でも凶暴な犬なら噛みつくよね」って話をして、それで、そのまま、その知人が昔自分の家で飼っていた犬の話になって、それは「おとなしかったよ」ということだったのだが、それはもういつだか知らないけれどもだいぶ前に死んでしまった犬のことで「でももう死んでしまったけどね。」と残念そうに言うから、「でもきっと天国でも元気でいるよ」と俺はかなりありきたりの、まあ浅はかとも行ってしまえばそんな適当なことを口にしたのだが、その知人である彼女はそのまま受け止めてくれて「ウチのこと覚えててくれてるかな」
ということを、言った。
 それで俺はあれって思って、つまり、それは話が逆になってしまった。だって、死んだもののことを忘れずに覚えているのは生きているわたしたちの側の責任で、死んだものにとって「覚えている、いない」なんてことはそもそもなくて、これはそもそも俺が、ある意味死者を擬人化(擬生化?)して「天国で~云々」なんてことを言ったから相手もそれを受けて「死者が記憶している云々…」的な話をしだしてしまったはずなのだが、しかし、俺はその着想は面白いと思った。
 そうか、「そうだね。きっと忘れてないよ。覚えていてくれてるよ。○○さん(知人の名)だって、覚えているでしょ?」といって相手も「うん」とうなずいたのだが、そもそもこういう風に、「死んだものたちが覚えているのだ」ということは、一種の逆説なのだがどこかしら真理めいたものに感じられたのだった。
 死んだものたちが覚えていて、わたしたちはむしろ記憶される側に過ぎず、結局、死んだものたちによって、記憶されている限りにおいて、わたしたちはその死んだものたちのことを思い出すことができるのではないか?
 彼女は「覚えていてくれるといいな。忘れてたら悲しいもの」ということを言ったかどうか、はっきりとは思い出せないが、しかしそういう方向性のことは確実に言っていたわけだけど、死者が忘れる、ということがあるのだろうか。死者が覚えているとしたら、死者が生者のことをわすれてしまう、生者がその死者のことを覚えているにかかわらず! という話は、考えてもみるとわりによくある話で、そもそも例えば「うらめしや」とでてくる幽霊は確実に覚えているのだが、『バイオハザード』とかのゾンビはきっと覚えていない。
 いや、言いたいのはそういう話ともちょっと違って、そもそもここで喋っていた「覚えている、死んでしまったもの」というのは、具体的にどのような存在を、俺とその知人とは、仮定しつつ、喋っていたのだろうか。それは幽霊とも違うし、観念とも違う気がする。しいて言えば、「直感そのもの」みたいなものに限りなく近い、存在、というか。
 「直感そのもの」によって感知される、その、幽霊でも観念でもない存在というのは、しかし、おそらくこうした会話などによる「記憶の共有」を介してしかたちあらわれない、すごく「関係性の上」にしかないもので、あるいみまた、「関係性そのものの記憶的触媒」とでもいうような気がする。
 ごめん、かなり適当な造語を作ってしまったのだが、ようするに人と人とのかかわりの上での、その瞬間瞬間にのみ組織されてその時のそのかかわり(会話とか)の中限定で働くその人たちのみ共有の「記憶」もどきみたいなもので、全然要していないのだが、その中で「死者」が泡のようにその都度彼らの間に想起されて、その死者が「記憶する」。
 その死者が記憶することが、つまり生きている私たちがその死者を介した私たち間のかかわりの中でその死者について「思い出し」たり、「考え」たり、要するに「偲ぶ」「悼む」ということなのか。
 つまり私たちが偲び悼んでいるとき、わたしたちは死んでしまったものたちに記憶されていることをよりどころとして、死んでしまったものたちをおもいだしているということ。
 死んでしまったものたちは、生きている私たちが日々つくる関係性の延長にあって、そこからわたしたちに「覚えている」ことを送っている。ということ。

 ここにいなくなってしまったものたちは、空洞だが、わたしたちはその空洞を中心にして渦を巻く竜巻のような形で、きっと関係性を構築しているのだということ。

 ここにいないというときに、それがいいたいのは、「ここ」には「いない」というだけである。(しかしこれは「どこかに」―「いる」という関連性を導き出す為の言葉ではない。)
 「ここ」には、「いない」というのは、「ここには、いない」というだけだ。
 むしろ「ここにはいない」、外側に運動する関係性の方だ。

 そのことがわたしたちのものをしている。
PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

× CLOSE

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

最新トラックバック

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(05/28)
(05/29)
(05/31)
(05/31)
(06/01)

× CLOSE

Copyright © 沼池(ぬまち) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]