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沼池(ぬまち)

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神野智彦『創造の欲望をめぐって』解釈/梅沢和木再論(前半)


神野智彦氏は自身の論文『創造の欲望をめぐって ―キャラ・画像・インターネット―』(2011)の中で、梅ラボこと梅沢和木(美術家,1985-)に対する評価を、アーティスト金氏徹平(1978-)の作品を引きながら論じています。

 まず、氏の金氏に対する評価を引いてみます。
「塩ビ製フィギュアの髪の毛を用いた『Teenage Fan Club』のシリーズ作品は、キャラの固有名性を消しきれずに、ひとつの統一的な形態になりきれていない。(図)キャラの名前が分かった瞬間に、そのパーツに輪郭が与えられ、全体像を失った「元ネタあてゲーム」になってしまって、一個の作品として捉えることが不可能になる。ただし、石膏の粉をかけるシリーズではそのようなことはなく、粉を振るという行為でひとつの統一を作り出しており、固有名の問題は金氏作品の特徴というよりは、キャラの特徴といえるだろう。」(掲書第2章第1節より)

 対して梅沢に対する評価です。
「梅沢の作品ではキャラの固有名が失われず、むしろそのキャラを象徴する記号性こそが用いられる。たとえば「黄色いリボン」ならば『らき☆すた』の「つかさ」のパーツであることがすぐに分かるが、このように画像の元ネタを梅沢は隠そうとしていない。キャラクターを象徴する記号的な画像はしかし、目に見えている部分以上の情報、文脈を含みこんでいる。そのため、それらの記号を次々に追っていく=再生していくような視覚体験が、梅沢作品の最大の特徴であるように思われる。
梅沢の扱う「記号」は「記号」とは言うものの、それが無味乾燥な情報であるわけではない。梅沢は、自身が画像を取捨選択する基準のひとつに「喚起力のあるイメージ」を選んでしまうというが、喚起するのは人間の情動的な反応であろう。それはすなわち、キャラの現前性である。つまり梅沢の作品は、キャラの現前性だけを抽出した「解体されたキャラ」なのだ、ともいえそうだ。作品を覆う全てが有意味な「記号」なのであれば、都築のビットマップの議論から敷衍すれば「記号というビットマップを用いた画像」のような作品と呼ぶこともできよう。
梅沢作品を回想するとき思い出されるのは、一つ一つの断片であり、記号であり、キャラたちが思い出される。しかし、統一的なひとつの作品として思い出すことは難しい。鑑賞体験が次から次へとキャラの断片から記号を想起するような体験であるが故に、個別の作品として思い出すことが出来ないのだ。それは、繰り返し用いられるモチーフゆえでもある。モチーフの変遷(たとえば、その時期もっとも旬の、新作のアニメの画像を梅沢はためらわず用いる。)を見ることで、その峻別を行うことはできる。しかし、それは「作品」という単位ではなく、経験の塊、記憶の塊のようなもので、切断線を明確に持たないのだ。しかし、キャラ的な集合となった『東方新超死』はそれをひとつの統一体のように読むことができる。」(同上)

 この直後より、論は梅沢の作品『東方新超死』の具体論に移行します。引きつづき引用します。
「『東方新超死』。この作品に初めて触れた時、なにかひとつの達成のように思われた(図)。コラージュとしての仕上がりがかなり完成され、一方で絵具の加筆は極端に少なくなった。猥雑感はかなり無くなり、ひとつのパッケージングとして成立しているように思える。使用している画像はすべて「東方Project」シリーズのキャラであり、しかもそれが群体として、「ひとつのキャラ」となっている。解体されたキャラが、それでもなおキャラ的であろうとする「現前性のオバケ」であり、非常に完成度の高い、記号的快楽を持った作品である。そして、「東方」というシーンを一つの絵画で象徴するかのような作品でもある。」(同上)

(金氏徹平『Teenage Fan Club #11』,2008)


(梅沢和木『Untitled』,2009)


(梅沢和木『東方新超死』,2010)

さて、以上は3つに分けはしましたが、『創造の欲望をめぐって』の一部のほぼ全文引用です。この一連の文章全体が持つ臨場感のようなものを損ないたくなかったため、このような引用を行いました。
具体的に論旨をまとめてみたいと思います。
金氏の『Teenage Fan Club』に対して神野氏は「キャラの固有名性を消しきれずに、ひとつの統一的な形態になりきれていない」とし、「キャラの名前が分かった瞬間に、そのパーツに輪郭が与えられ、全体像を失った「元ネタあてゲーム」になってしま」うというキャラの特性に言及しています。これを氏は「キャラの固有名性」と呼びますが、では作品を作る際にこの「キャラの固有名性」をどう扱えばいいのか、という所で論は梅沢に移ります。
氏の指摘するところによれば、「梅沢の作品ではキャラの固有名が失われず、むしろそのキャラを象徴する記号性こそが用いられる」のであり、「それらの記号を次々に追っていく=再生していくような視覚体験が、梅沢作品の最大の特徴であるように思われる。」そして、結果として梅沢の作品群は、「「作品」という単位ではなく、経験の塊、記憶の塊のようなもので、切断線を明確に持たないのだ」と結論します。
ここで述べられているのは、キャラを素材として扱う限りにおいて逃れられない「キャラの固有名性」を逆手に取り、あえて「統一的な形態」を作らないことによって実現される梅沢作品の斬新性でしょう。

 しかし、つづく神野氏の論展開はある“乖離”を発生させています。
 「しかし、キャラ的な集合となった『東方新超死』はそれをひとつの統一体のように読むことができる。」
 「『東方新超死』。この作品に初めて触れた時、なにかひとつの達成のように思われた」
 ここに至って氏は、直前まで展開していた梅沢論をいわば裏切る形で、『東方新超死』を「ひとつの統一体のよう」であり「ひとつの達成」であるとしています。
しかし、すでに指摘していたように氏が梅沢作品に見た特徴は「経験の塊、記憶の塊のようなもの」として「それらの記号を次々に追っていく=再生していくような視覚体験」だったはずです。
『東方新超死』が「統一体のように読」めるという評価は、自身の金氏に対する評価、「キャラの名前が分かった瞬間に、」――「一個の作品として捉えることが不可能になる」と一見矛盾しているように読み取れます。



『Teenage Fan Club』と『東方新超死』

 『Teenage Fan Club』があくまで「キャラの固有名性」を隠蔽しつつひとつの「統一的な形態」を造形しようとしたのに対し、『東方新超死』は逆にキャラのメトニミー(喚喩記号)のみを用いることで「統一的な形態」を作ろうとしたものでした。
 『Teenage Fan Club』では「キャラの固有名性」を隠そうとしたこと(=メトニミーをあえて避けたこと)が裏目に出、結果として「ひとつの統一的な形態になりきれていない。」非常に中途半端な、ただのアッサンブラージュに落ち着いてしまっている印象は、確かに拭えません。
 対して『東方新超死』は、「統一的な形態」と「記号を次々に追っていく=再生していくような視覚体験」とを両立させることに成功しているようです。
この違いは具体的に何から生じるのでしょうか?
 神野氏の『東方新超死』に対する評価に次のような一説があります。
 「しかもそれが群体として、「ひとつのキャラ」となっている。」
この「群体」という言い回しは興味深いものです。「群体」とは、通常微生物などに見られる共生形態のことですが、それは全体と個との境界を行き来するような不思議な生命のかたちです。神野氏が論じるように梅沢は「キャラの固有名性」を隠さない、つまり個々のキャラを生きたまま使おうとする(=メトニミーを意図的に選択し、用いる)。梅沢はこういった記号を「喚起力のあるイメージ」と呼んでいますが、例えば「東方project」のキャラクターにおいて彼女たちの帽子(=「ZUN帽」)がしばしば彼女たちの「本体」であると揶揄されるように、メトニミーとはキャラのアイデンティティを規定する核であり、魂であるともいえます。
 金氏はこのメトニミーを用いず、いわばキャラの死体で作品を作ろうとする。
 梅沢はメトニミーを利用し、キャラを生かしつつキャラの「群体」を作ろうとする。
このキャラを生かすということがつまり、神野氏が論じるところの「記号を次々に追っていく=再生していくような視覚体験」の保証となっているのでしょう。
 梅沢の作品に対して神野氏は「再生していくような」と形容し、対して金氏の作品に対しては「元ネタあてゲーム」と形容します。これは表面的には同一の視覚体験についての言及であるはずですが、キャラのメトニミーの選択の有無がここまでの印象の違いを生んでいるのは大変興味深いことです。氏のいう「再生し」というのは動画を再生する、的感覚からの言及だったのでしょうが、まさに「再び生か」せるようなかたちで、梅沢は素材を選択していることになります。



 こうしてみると梅沢がキャラに対して2通りのアプローチをかけていることが見えてきます。つまり、一方で、『Untitled』にみられるように、「経験の塊、記憶の塊のようなもの」としての作品。そしてもう一方で『東方新超死』のような「群体として、「ひとつのキャラ」となっている」ような作品。
 両者は「記号を次々に追っていく=再生していくような視覚体験」を実現させているという点で共通しますが、前者ではその特性が「共時性」のようなものの現れとして作品に多次元的な空間を与えているのに対し、後者では「群体」として多人格的な性質を発露させています。
 そしておそらく、この2つを混在させて論じようとした所で、先の矛盾が発生してしまったのだと考えます。

しかし、神野氏自身が論じたように、『Untitled』の特性は統一体として読む“べきでない”ところにあり、一方『東方新超死』の特性は統一体としても読めるというところにあるわけです。これら差異を「達成」として一本の直線で結ぼうとする態度は、表現の多様性を損ないうるものであるように私には思えます。
 
梅沢のドローイングに『ニコニコドラゴン』という作品があります。以下pixivに掲示されている作品のキャプションから一部引用します。
「ニコニコ動画とかで人気のキャラが頭になっているドラゴン。ヤマタノオロチよろしく首が八本あり尻尾もおまけでついている。八回攻撃。主な主砲は竜宮レナ の鉈の一撃。首で器用に鉈を持ち確実に息の根を止めようと執拗に振り回してくる。魔理沙と霊夢は全体攻撃の攻撃の恋符「マスタースパーク」と霊符「夢想封 印」を交互に口から放つ。また、この二首はこちらの攻撃がミスる(かする(GRAZE))と能力が上がる特性がある。ミクの声による攻撃は様々な種類の歌 があり、威力がまちまち。だが中毒効果のある歌の場合即座に戦闘不能状態になるので注意が必要。ハルヒは「全軍突撃」の掛け声ですべての首の一番攻撃力の 高い攻撃を命令して出させる事が出来る。水銀燈は人工精霊を用いた攻撃でほかより素早い上に対空殺傷能力が高い。最早ドールではないためアリスになる事を あきらめ半ば狂乱状態。長門は何もしないで本を読んでいる事がほとんどだが稀に情報連結解除でこちらのパーティー全員を消滅させることがある。こなたは何 もしない。尻尾のロックマン型1upは一回だけ首を生き返らす事が出来る。」(http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=326905)

(梅沢和木『ニコニコドラゴン』,2008)

『ニコニコドラゴン』はこのように、様々なキャラの顔と、その特徴的な性質とを怪獣的なベースにコラージュしたキャラクターで、ここからは『東方新超死』など現在の梅沢の仕事につながる様々なキャラのエッセンスが見て取れます。その一方で、梅沢のドローイングには次のような作品もあります。

(梅沢和木『涼宮ハルヒの分解』,2007)


(梅沢和木『夢大』,2002)

『夢大』は梅沢の高校時代の作品、『分解』は大学時代の作品ですが、こちらのドローイングには、神野氏が『Untitled』に関して「記号を次々に追っていく=再生していくような」、「経験の塊、記憶の塊のような」と形容した特徴があらわれています。
(もう少しいえば、偶然にも(?)『夢大』(=「無題」)と『Untitled』とではタイトルが意味的にほぼ同じですが、そこには、まさに神野氏が『Untitled』において指摘した、「それは「作品」という単位ではなく、」――「切断線を明確に持たない」という感覚が反映されているようでもあります。名称によって区別されない、断片としての作品群。)


(※《後半》へ続く)
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