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沼池(ぬまち)

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神野智彦『創造の欲望をめぐって』解釈/梅沢和木再論(後半)

(※《前半》からお読み下さい)



という訳で、私としては梅沢の仕事に2つの流れを見ます。

ⅰ:「場」としての梅沢作品

 ↓



ⅱ:「キャラ」としての梅沢作品

 ↓




「解体されるキャラ」展のアーティストトークの中で梅沢は次のように語っています。
「でもあれもかわいいなと思ってやってるんですよね。《略》ウィンドウズの露骨な×とか、なんでVISTAになって、こんなコテコテな(笑)みたいな。そういうの結構、愛着わくんですよね。逆に人間らしいというか。
だからキャラ的な扱い方と結構一緒に扱っている部分もあって、自分の好きなキャラと、その隣にこのかわいい×ボタンを置くみたいな。」(「創造の欲望をめぐって」付録「「解体されるキャラ」展 梅沢和木トークショー」より)

この発言からは、様々な単位の記号に「キャラ」を見出しては楽しんでいる梅沢の姿が想像できます。梅沢のキャラに「最小単位くん」というのがいますが、その名のとおり、キャラを構成する最小単位(と梅沢が考える要素)だけで構成されたミニマルキャラです。

伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド』の中で「キャラの自律性」を論じ、また、東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で「大きな物語」の凋落と「小さな物語」の氾濫に言及しますが、「キャラ」とはそうした「小さな物語」として自律的にふるまえる「人格・のようなもの」すべてに対して用いられる名称のことだといえます。

「最小単位くん」から『Untitled』まで、このミクロからマクロレベルまでの深いパースペクティヴに貫かれた多世界的な宇宙観こそ、梅沢の創造の源泉なのでょう。

(一部敬称を省略させていただきました。この場を借りてお断りさせていただきます。)







◎主な参考文献
神野智彦「創造の欲望をめぐって ―キャラ・画像・インターネット―」(2011)
伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」(2005)
東浩紀「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」(2001)
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