忍者ブログ

沼池(ぬまち)

距離を測る。 ■mail→ yoshiwoemon [at] gmail.com ■Click MENU.
MENU

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

耐える・耐えない

連続してお知らせ。


---

武蔵野美術大学映像学科 進級制作展

開催日    2009年10月21日(水)~10月26日(月)
開場時間   9:30-19:00(25日は16:30、26日は17:00閉館)
会場     武蔵野美術大学/12号館地下展示室+1階ビデオアトリエ及びロビー
主催     武蔵野美術大学映像学科 進級制作展実行委員会
※10月21日(水)、22日(木)、25日(日) トークイベントあり

web:http://shinkyu09.com/

---


けっこう長くやっているので、お暇な方は。

ところで、川上未映子さんの作品がちょっと読みたいです。
PR

無題



高校時代の私の恩師が個展を行うそうなので。

詳細

今日の明け方~朝の夢(断片)

おそらく高校。(ただ、校舎の雰囲気は小学校っぽい)
文化祭(運動会?)の最中のよう。
自分は生徒としてその文化祭のなかをぶらぶらしている。
自分の教室が校舎の3階辺りにあるのだが、その窓から2~3度くらい繰り返して真下の校庭に飛び降りて移動している。飛び降りる時の一瞬無重力になる感覚など、妙にリアルで恐ろしい。ただ、着地する時にひざを大きく曲げることで衝撃を緩和することができるので傷を負うことはない。そのことはわかっているのだが、とても恐ろしくて何度も躊躇してしまう。少しためらった後に、近くの足場まで降りて2段階に飛び降りたりしていた。
デジカメか何かを持ち歩いていたので、後で、その飛び降りた時の映像を再生して見て、面白い映像が撮れたなどと思っていた。

「考えるんじゃない。感じるんだ。」――あるいは、喋らない哲学者

「絵の言葉」とでもいえるようなものがあり、それは例えば英語の詩を日本語の詩として記述するのが原理的に不可能なように、「文字による言葉」に置き換えるのは原理的に不可能である。
「絵の言葉」を無理やり文字に置き換えても、それは“直訳”にしかならない。そこでは、本質的な、大事な、なにかが欠落してしまうことになる。直訳は説明としてしか機能しないからである。


「この絵はどういう意味のものですか?」

このような問いかけには、従って、完璧に答えることはできない。その答えは上滑りな説明以上にはならない。
「絵の言葉」を読むには(その絵の本質を理解するには)、絵に対するリテラシーが不可欠であるということになる。それは、日本語を理解するには日本語の文法、語彙、慣用句などを学び、経験を積んで習得しなければならないのと同じである。


これは「思考」に対しても同様なのではないか。つまり、私たちが頭の中で思考するイメージの様々は、その思考の中でのみ完璧に振舞えるのである。それを、文字や、声や、手振りや、絵などの、メディアによって外部に露出する際には、そのメディアの限界を超える表現は剪定される。つまり外部へ具現化されない。
従って、自らの思考を完璧に記述しようとする者は、さまざまなメディアを用いて自分の表現を行わざるを得ないということになる。それでも、アキレスと亀のパラドックスのように、決して完璧な思考のアウトプットには至らない。それは99.999...% の“再現”しかなされない。
思考は完璧には共有されることはない。


しかし、それが「思想」ならばどうだろうか。無意識の奥底に存在する、人類共通の、思考。それはときには「本能」とか、ときには「イデア」などと言い表されていたりするかもしれないが、そういったものが存在するならば、「思想」は知らず知らずのうちに共有されていることになる。

あらゆるメディアが存在する以前にあったもの。

× CLOSE

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

最新トラックバック

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(05/28)
(05/29)
(05/31)
(05/31)
(06/01)

× CLOSE

Copyright © 沼池(ぬまち) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]