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沼池(ぬまち)

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がば

メディアを「言語」と言い換えるとするなら、
言語は想像力を生かしもするし殺しもするが
しかし言語に殺される想像力のいかに多いことか。
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今朝起きる直前の夢

<中略>

(地元の元S家の空家周辺)
あたりが薄暗くなったので見えるようになったらしく四方にはてしなく大きいカテドラルのようなものが屹立している。あまりに高いため天辺は上空の薄闇の中に消えて見えず、はては高すぎるあまり、カテドラルの上部が天球に沿って遠近法的に歪んで、建物の突端が天空からさかさまに幾つか突き出している。この風景はおかしいとなんとなく感じており、地球は外側に丸いはずなのにこれだと内側に丸いことにもなってしまっておかしい?? みたいな矛盾を考えている。

前方の地平線から石造りの建物群がこちらに向かって迫ってきており(こちらが近づいていたのかもしれない)、自分と友人のIとがそちら側の石造りの町のほうへダイブしていく。
街中の小さい石橋の上に着地したIは渡った先にあったフライドチキンのガチャポンを行う。ガチャポンには「¥1000 100」などとよくわからない表記がしてあり、ガチャポンに100円玉を入れ続けるIを見ながら、(千円入れればフライドチキン10個でてくるのかな)などと思う。
やがてガチャポンから商品が出てきたらしいが(チキンの丸焼きのようなイメージが現われ、そのようなものが出るらしいことが暗示される)、自分はガチャポン越しにIをみているのでなにが出てきたかわからない。何かIをたいそう戦慄せしめるものが出てきたらしく、Iは悲鳴を上げて飛び出す。

気付くとIが全身に酷い傷を負って立っている。左腕は包帯でぐるぐる巻きにされた義手になっており、右腕は上腕辺りから切断されていて切断面からは骨の代わりに鉛が埋め込まれているのが見える。
どうやらこの街にいるのは危険らしく裏の山の頂上へ避難しようという話になる。登山用のでかいリュックを背負って、棚田の間の草がぼうぼうに茂った未舗装の山道を上り始める。Iのリュックがとても大きいので重すぎやしないかと心配する。
先に3人連れのオタクっぽい女性登山者が歩いており、彼女らの後について上り始める。
山はやわらかい土の斜面で手足を懸けるところも作りやすいが大変急で、誤って落ちたら死んでしまうと思い緊張しながら必死に登る。相当体力を消耗するようで、こたえる。
やがて山肌がガチガチの硬い土に変わっていき、手を食い込ませることができなくなる。前を行く女性たちのリュックにしがみついたりしながら必死に登る。
さらに上ると、斜面がつるつるの岩肌になる。全体が霧でかすんでいるので、うっかり水でも流れてきたら万事休すだと感じながらも、乾いている岩肌をでこぼこを頼りにロッククライミングのようにして登る。途中何度か滑落する。Iはひどい身体なのにここまで頑張っていてすごいなと心配する反面感心する。
途中でわりと大きなくぼみがあり、全然休憩できる環境だとは思わなかったが、Iが呼び止めるのでそこで一旦一息吐く。Iが「ちょっとまってて」などというのでなにをするのかと思っていると、腰に下げていたハンディデジカメを取り出して、下方に広がった霧にかすむ急な岩肌の斜面を撮影しはじめる。呆れていると、撮影し終わったIがデジカメをしまえず難儀していたので、代わりに引き受けて自分のポケットにしまっておいてやる。しまいながら、デジカメが岩肌にぶつかって壊れたらどうしようかと心配する。

<中断(覚醒か何か)>

映像がテレビのニュース中継風になっている。岩肌を登る登山者たちの映像が映し出されており、登山中に雨が降り何人もが亡くなったこと、その日の気温が90度に達したことなどが報道される。
映像の後半では登山者の人数も明らかに増えており、山肌もジグザグとした何か人工的な風のものに変わっていて、(カイジみたいだな)などと思った。

ブロバリン

それぞれのレベルには、その階層に所属するものにしか理解できない苦しみがあること


「毎年3万人が(自殺で)死んでいる。
これは戦争ですよ。」先生は仰った。

うなづく

現在武蔵美術大学映像学科進級制作展で展示している、私の作品(冊子)『うなづく』のドキュメントファイルをフリーで配布することにしました。


『うなづく』のデータ配布は終了しました。(2009/10/28)



以下、ダウンロード版うなづく用に新たに書いたあとがきから抜粋。


---

ことばには、本当によく助けられている。依存しすぎといえるかもしれない。

うなづくの序文でも書いたように、ことばとはミトコンドリアのようなもので、

決して自分の内奥から分離してきたものではない。

それは、外にあって、それは言ってしまえば社会そのもので、自分がオギャーと

生まれてきたときに、母親から分離して、ひとつの「個」となったときに、体に

ガッシとひっついたようなものだ。

その言い方はちょっと正しくないかもしれない。

自分が、自分という「個」として成立してしまったので、社会で生きていくために

吸収していかざるを得なかったもの。吸収することで、「考える葦」こと人間として

豊かに生き生きと暮らせるための、一種の道具。武器。

それがことばです。


とまあ、なんでこんなに「ことば」というものについて長々と書いているかというと、

自分がこの本をつくろうと決めた辺りからずっと考えていて、そして今も考えている

ことが、つまりはそういうことだからです。

うなづくのあとがきには、映像には映像のことばというものがある。それは「クオリオ」

などと呼ばれている・・・・・・みたいなことを少しだけ書きましたが、つまりここで言っている

「ことば」とは、単純に言語(language)や文字のことだけじゃなくて、もっとひろく、

「思考するための道具となるもの」程度の意味だととらえてください。

考え、それを表す手段は何も言語や活字だけではありません。文字がなかった頃は

先人たちは絵を描いて意思の伝達や共有を行ったわけですし、動物たちは言語以前の、

人間で言えば叫び声みたいなのにあたる、鳴き声の調子や、それだけじゃなくて種によっては

ヒトには聞こえない超音波だとか、光や匂いなんかでコミュニケーションをとっている奴も

いるわけです。


そんな風に考えていると、ものを伝えられる手段は言語だけだ、なんて考えは逆にひどく

傲慢で偏狭なもののようにも思えてきます。

なにより自分は一応美大生なのだから、例えば絵とか、例えば映像とか(だけ)で

ものをつたえられないかなーと考えるのは、自分にとっては至極当然のなりゆきだった

ようです。

というのも、言語や文字というのは、たぶん本来、最も合理的に効率よく思いを伝えて

残すという、そういうことに特化したツールだからです。

人間社会は言葉偏重ですが、言語が伝えるのを得意とするイメージがあるならば、

当然、例えば絵が伝えるのを得意とするようなイメージもまたあるわけです。

そういうことで、言語がカバーしきれない、不得手とするような、頭の中のもやもやを、

色や線や光や音で表現してやろうとしたのが、きっと芸術というもののおこりなんだと

思います。

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