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沼池(ぬまち)

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(元_07)

2018 元日

ことしもよろしくおねがいいたします。

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雷鳴に耳を塞ぐ女の子

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女の子は雷を彼女の耳に差し込む雷に対して彼女の耳をひっぱりました。

蜃コ迴セ(MiはMiに戻ります)

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内田百閒の文章の奥行きのなさについて、試論


A「私は長い土手を伝って牛窓の港の方へ行った。土手の片側は広い海で、片側は浅い入江である。入江の方から背の高い蘆がひょろひょろ生えていて、土手の上までのぞいている。向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。」(内田百閒『冥土・旅順入場式』)

B「ふたりが急ぐふうもなく歩きつづけている通りは、ま一文字にどんどん下っていって、地平線にまで伸びている。地面全体が斜めになっている。左右にならぶ家の列は、かつては、欄干や彫像で飾りたてた華美なファサードをほこっていたが、そのファサードもずっと以前に荒れはて、石壁は腐って海綿状になり、かびで一面しみだらけだ。」(M・エンデ『鏡のなかの鏡』)

 Aの文章は近景から遠景へと視点が移るように描かれているが、「向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。」とあるように、視界が遮られている。「向う」という言い方もあいまいだ。
 一方、Bの文章では、遠景から近景へと視線が移るように描いてある。Aと同じように反復される画一的な風景が続くが、視界は遮られていない。また、文章が近景で終わっていることで、そこから主人公をめぐる描写への移行が自然になっていて、遠景の想像を補う形で、近景の想像が豊かにめぐらされるようになっている。画一的な風景が続く、ということは、近景のイマジネーションが、ある程度は遠景へも適応されるということだ。Aの文章では、さきに近景のなにもなさを言ってしまったことで、遠景もまたふさがれてしまうが、Bの文章では、茫漠とした遠景から、具体的な近景へ視点変換されることで、遠景への広がり=イマジネーションは、壊されずに保存される。その上で近景~主人公についてが、語られるのだ。そのようにして、Bの文章では、遠景と近景が補い合って、それぞれの広がりと細部とを担保するようにできている。
 対してAの文章では、近景の何もなさと、遠景の「埋まっている」閉塞感とが、互いに打ち消しあうようにして働いて、結果閉塞感が強まってしまい、視野は広がっていかない。このようにしてAの文章の焦点は、広がりや奥行き、と言った空間の方ではなく、むしろ「ひょろひょろ」というオノマトペに代表される、「私」のよるべなく不安な身体感覚・意識の方なのだろう。ということがみえる。その意味では、これは「私小説」的な感慨を描いた文章だと、いうこともできるのではないか。

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