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沼池(ぬまち)

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『止まらない子供たちが轢かれてゆく』へのアプローチ(1)

6日、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』という演劇を観た。
演出家は綾門優季氏。まだ22歳らしい。すごく若い(とおもうのだが、演劇界では普通?)。

演劇はいままでほとんど観て来なかったのだが、最近身体を介した表現に関心が高く、全く偶然に知った演劇だったが、タイトルと筋、評価などに惹かれて、観に行った。

ざっくりとした印象は、作品的な完成度は高いが、内容・思想面ではまだよわいのではないか。ということだった。
そして上演後のアフタートークも含めて、この劇のことについていろいろもやもやがたまったので、ツイッターに書いた。以下、それをまとめます。

ことばとからだをめぐる考えについて、私自身がかなり敏感になっていると、かんじます。実際観終わった後はかなりつらかったです(その意味ではいい作品だったといえます)。
だから以下に述べているのは、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』への批判でもあるのですが、自分自身が抱える問題意識でもあります。


(以下、ツイッターでの発言より。一部ニュアンスを書き換えて、文章に統一を持たせている部分があります。)

---------------


『止まらない子供たちが轢かれてゆく』は評価が一様に言葉(文体?)を廻ってばかりだったのが気になった。最終的には空間と人間の身体で表現されるわけだから、脚本上の文体のディテールにこだわっていてもあまり意味がないんじゃないか? と。そして内容についてもあまり言及されていないことも。
アフタートークでは作家さんがとても言葉の表現にこだわられているらしいことは感じられたのだが、それがどうしてあのような罵倒の浴びせあいや文語的言い回しになるのかがよくわからなかった。……のだけど、さっきネットで調べたらどうやら現代演劇には口語で演るか、文語で演るかという議論があるらしい。

しかしそれもやっぱり脚本上のディテールの問題でしかないと思える。演劇に限らず、小説でも映画でも漫画でも、技法論的な議論はいつの時代も事欠かないが、それって、表面的な質にこだわるあまり肝心の内容を置いてけぼりにしてしまう議論なのではないか? と感じる。
そうした言い回しにこだわるあまり身体が置いて行かれてしまうのでは、いっそ朗読劇でもよかったのではないか? と思えた。

文語/口語という切り替えはアナログ/デジタルというような切り替えと同じで、作品の核には影響しないと思える。 そもそも演劇における言葉(文体)、というのは脚本に書かれた文章のことなのか?
演劇における言葉(文体)というのは演者の口から発せられる言葉、演者の身振り手振り表情、それらによって構成される空間の質、それらの演じられている全体のことを指すのではないか?
例えば脚本の「バラ」という文字を「薔薇」と書くか「Bara」と書くかということが文体なのだろうか。



じつは昨晩のアフタートークで質疑させていただいたのだけど、その時は言葉が足りず質問内容がうやむやになってしまった。いまここで整理しなおしたいと思う。

それは、作家さんが「赤ちゃんのセリフでもほかの登場人物と同じように書くと思う」とか、他の方の質問に対して、石などの無生物もそのように登場させると面白いかもしれないとか、そういう発言があったことについてで、つまり「どんな状態も言葉で表現できる」と考えていらっしゃることについてなのだけど、疑問に思ったのは、そもそも赤ちゃんは言語を身に着けていない、にもかかわらずその状態を言語化できると考えるのは、言語を身につけたものの側の傲慢ではないのか?」ということだった。
先ほどの内容ともリンクしてくるのだけど、演劇は身体と空間表現があってこそ「演劇」という表現として成立しているわけだから、あえて言葉になっていないニュアンスまで言葉(セリフ)にしようとする必要が演劇であるのだろうか、と思ったのだった。

ただ一方で『「小学生らしくない複雑なことを小学生は結構考えている」はず』『「考えていることを明瞭に言語化できない」だけ』(フライヤーより)という作家さんの主張は、私も賛成します。 でもしかし、この主張が赤ちゃんや石にまで、果たして敷衍できるのかという点は疑問です。
そもそも「考えていることを明瞭に言語化できない」ということは結構曲者です。果たして「明瞭に言語化できない」ことを、作家が勝手に「明瞭に言語化」してしまっていいのか。それこそ、八方手を言葉で尽くしてでも、なお言語化できない、そのあがきとかずれの方を表現すべきなのではないか。

先日佐世保で痛ましい殺人事件がありました。これと関連付けてしまうのは不謹慎なのかもしれませんが、犯行を犯した学生は正に「明瞭に言語化できない」ものを抱え込んでいたわけです。彼女は学業成績が良かったと報道されていましたが、それにもかかわらず。
言葉というのは恐ろしいもので、「明瞭に言語化できない」意識に外部から「言語」を与えられると、その意識は、あたかも初めからその感情であったかのようにふるまってしまいます。
なんだかわからないけど落ち着かない、という不定形な状態の時、「悲しいんだね」と声をかけられれば、その人の意識は言語化できない細かなニュアンスは切り捨てて、「悲しい」という感情の「型」に落ち着いてしまいます。先ほどまでの気分が本当に「悲しさ」だったのかは関係なく。
成長していろいろな言葉を知ると、過去を思い返して「あの時の状態は○○という感情だったのだな」と考えますが、それは過去の自分を現在の自分が使う言葉に当て込んでいるだけです。確かに子供は複雑なことを考えることができると思いますが、それは「明瞭に言語化できない」状態での思考です。
むしろ自分の考えを明瞭な言葉に置き換えてしまえると思うのは、言葉をある程度知ってしまった側の傲慢ではないでしょうか? 逆に、私たち自身は自分の気持ちを「明瞭に言語化」できているのでしょうか? 難解な言い回しに置き換えてごまかしているだけではないのか?

とりあえず以上です。
後半(*以下)は劇本編と直接的には関係しないですが、個人的な問題意識と関係が深い。
一つの言葉、文体によって世界を一様に均質化してしまうというのは安定的ですが多様性を殺す危ういやり方で、言葉にはそういう能力があるし、そうやって文明は発展してきたと思います。

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コミティア109

8月31日、東京ビッグサイトで行われた同人誌即売イベント「comitia 109」へ参加してきました。
今回の参加は友人の協力によるところがとても大きかったです。人と人とのつながりの大事さを身に染みました。

ご覧になって下さった方、購入して下さった方も、本当にありがとうございました!

刺激的な作品もたくさん見れ、よい週末だったと思います。

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アリエッティ放送記念(見てないけど)

金ロで「借りぐらし~」が放送されたそうですので、せっかくなのでむかし劇場へ見に行った直後のツイッター投稿感想文をあげます。(2010年投稿)
以下、ついったからのコピペの都合上、下から上に読んでください

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よしを
yoshioemon よしを
どーでもいいけどなんであんな変な場所にアリエッティたちの棲みかがあったのか 原作読めばわかるのかな。
7 Sep Favorite Reply Delete
»
よしを
yoshioemon よしを
小人たちは完全に「あちら側」に属するのに対して、翔少年は「こちらとあちらの境界線、半歩あちら寄り」くらいの立ち位置だから、その辺の葛藤も凄いものがあった気がする。
7 Sep Favorite Reply Delete
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よしを
yoshioemon よしを
いや、閉鎖感は「アリエッティ」全体を貫いているからここはむしろ、〈翔=はやお本人、小人一族=はやおの理想〉と捉えるほうがしっくりくるか。
7 Sep Favorite Reply Delete
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よしを
yoshioemon よしを
というか「アリエッティ」全編を通して、あの閉鎖的で無政府主義的(?)な小人一族そのものがまんまジブリのメタファーなんじゃないかと思ってしまう。
7 Sep Favorite Reply Delete
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よしを
yoshioemon よしを
トトロは「子どものときにだけ あなたに訪れる」だったけど、アリエッティでは「滅び行く種族」だからな。ジブリの現在を象徴したひとことといえよう。
6 Sep Favorite Reply Delete
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よしを
yoshioemon よしを
〈ジブリ回顧(懐古)→ジブリ決別〉 に見えた。最後は期待と不安両方を抱え込んで。
6 Sep Favorite Reply Delete
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よしを
yoshioemon よしを
というのは俺が言うまででもないことだけど、でもアリエッティは良かったと思う。特にラストシーンが・・・めちゃくちゃな中身だったけど、終わり方がものすごくキレイでした。
6 Sep Favorite Reply Delete
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yoshioemon よしを
これはもう「こち亀」とか「ゴルゴ13」と同じレベル。骨董化してる
6 Sep Favorite Reply Delete
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よしを
yoshioemon よしを
ずーーっつとはやお主導できたお陰で美術やアニメートの技術はすげえですけど、内容や思想や価値観、世界観などが完全に滞ってってって
6 Sep Favorite Reply Delete
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yoshioemon よしを
とにかく米林さんには監督をつづけてもらいたい
6 Sep Favorite Reply Delete
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yoshioemon よしを
ポニョは終焉というかんじだったが
6 Sep Favorite Reply Delete
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よしを
yoshioemon よしを
アリエッティ、良くも悪くもジブリの終点て感じ
6 Sep Favorite Reply Delete

2014年7月12日のメモ

統合ははじまりであるわけですが、統合ははじまりにすぎないということです。統合された、その先に行った先での話。その繰返し。反復ではない、また新たな関係が私と世界との間に形成される。

 生命を謳歌されるのは一時なり生命を蹂躙されるままに、皆それぞれの生をいきといて9割をのこす。残りの1割その基底に上乗せして欲望のままに機械的として暴力を慾して制禦を欠いた、肥大しすぎて私ですらない「無死貪慾」の怪物おのれの意志を欠いたリヴァイアサンのような蠕動して渦を巻くただの有機体の塊として強制的生を生きられる。(それは多様性を飲み込み押し潰す形態をとる)

 そのはざま―私は―しかしこうしていられることの「平和」安穏を厳しく追認し続けるはず。

 私 ⇔ 多様性=私でないもの(<斜線を引かれた「私」>)
 否定的でない対立。否定的でない対立が多様性の基軸にあり、ものごとを"美しく"配置し直す。(con-stella-tion:星座的配置)

2014年6月23日のメモ

統合ははじまりであるわけですが、統合ははじまりにすぎないということです。統合された、その先に行った先での話。その繰返し。反復ではない、また新たな関係が私と世界との間に形成される。
「開かれた」というのはあらゆる方位に無限に、ということだが、その可能性たちのある場、ある場では、かならず関係の新たな結ばれ合いが思わせられ、試みられることを経て、それは成就したり失敗したりすることで、世界へも私へもそれぞれ、可能性の結果と、そこから派生する新たな可能性への期待という形で、フィードバックされていく。
そうした模索と再認知の漣(さざなみ)のはるかとして「無限」は定置されている。そこへ到達することが目論まれているわけではなくて、そうした試行延長のあくまで結果として。

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