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沼池(ぬまち)

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炎上詩①,②



炎上が怖くて、凍結する人々。
言葉が凍結して壊死。
広がった先々は根腐れ。
やがて幹は灰色になって枯渇。
大きな「うろ」が空いて、崩落。
炎上する先端は空気分子を散らす。
煙は風に乗って拡散。
無呼吸と颱風。
津波は遠い沿岸を洗う。
削りだす水分子は石走って浸透。
循環する大気と降雨。
森林火災を濡らす。
根を張り巡らせ。
虫虫はかしましく繁殖。
月経血ながれる中天の名月。
そそり昇がるイナ光。
あるべきやうは、



 ②

炎上を恐れる子供たちが凍り付いてしまう。
自らの燃え上がる姿から目を逸らして、徒党を組んだ。
火を付けて遊ぶ子供たちは自らの姿を知らない。
可燃性の体をもつ自分自身を知らない。
真っ赤なこどもたちは必死になって自分の体を青だと嘯くことに必死になって風景が闇であることを知らない。
彼らは自分の家に火を付けて遊ぶ。
「人殺し」という言葉が空から降ってきている。
方々にささる。
みんな気づかずに「雨だ」と言って傘も差さないで笑っている。
目の悪い人たちは「空から女の子が降ってきた」と言っては持ち帰って飼いならす。
みんな優しいのでにこにことしている。
みんな優しいのでにこにことしている。


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なぜ美術をやっているかといえば、

なぜ美術をやっているかといえば、美しいものにふれたとき・感動したときの思いを持続して抱きたいから/そもそもは落書きがきっかけだったのか/友達とやる落書きは楽しい。それが漫画に発展すればなおたのしい。それで「俺はこんなに絵を描いているから絵がうまいんだ」とかんちがいしたのがはじまりだったとしたら。そんで俺は全然絵がうまくないんだが意地になって描き続けたとして。たまたま身近にイラストが好きな友人が居たりもして。何を勘違いしたか、有名イラストレーターの影響を受けて美大を目指したりもして。しかしそのころには俺は十分、詩とか一応文学とか、絵とかが好きになっていて、大自然に対したときのような感動を抱いていたとして。それらの実感を担保にして、無謀な美大受験に、学力をかなぐり捨てて挑んでいったとして。
俺はもっと、文学とか詩とか、大自然とか、Mエンデとか、安倍吉俊の初期の画集とか、
遠藤浩樹の初期の作品とか。
そういうきらきらしたものを。
絵本。
児童文学。
漫画。
詩。
文学(「純文学」)。
アニメーション映画。
映画。映像。
朗読劇。
芝居。
ダンス。舞台。
歌、と踊り。

風(ただ風が)

20150830163452

しのびいたむ。


 今日昼間知人と散歩しながら、通り過ぎたわきの家にかわいい猫がいたので「猫だ、かわいいね」といったのだけど、その知人は「猫はかわいいけど、すぐひっかくから嫌だ。犬の方がいい」ということをいって、「猫はひっかくけど、犬はなめるだけだから。でも凶暴な犬なら噛みつくよね」って話をして、それで、そのまま、その知人が昔自分の家で飼っていた犬の話になって、それは「おとなしかったよ」ということだったのだが、それはもういつだか知らないけれどもだいぶ前に死んでしまった犬のことで「でももう死んでしまったけどね。」と残念そうに言うから、「でもきっと天国でも元気でいるよ」と俺はかなりありきたりの、まあ浅はかとも行ってしまえばそんな適当なことを口にしたのだが、その知人である彼女はそのまま受け止めてくれて「ウチのこと覚えててくれてるかな」
ということを、言った。
 それで俺はあれって思って、つまり、それは話が逆になってしまった。だって、死んだもののことを忘れずに覚えているのは生きているわたしたちの側の責任で、死んだものにとって「覚えている、いない」なんてことはそもそもなくて、これはそもそも俺が、ある意味死者を擬人化(擬生化?)して「天国で~云々」なんてことを言ったから相手もそれを受けて「死者が記憶している云々…」的な話をしだしてしまったはずなのだが、しかし、俺はその着想は面白いと思った。
 そうか、「そうだね。きっと忘れてないよ。覚えていてくれてるよ。○○さん(知人の名)だって、覚えているでしょ?」といって相手も「うん」とうなずいたのだが、そもそもこういう風に、「死んだものたちが覚えているのだ」ということは、一種の逆説なのだがどこかしら真理めいたものに感じられたのだった。
 死んだものたちが覚えていて、わたしたちはむしろ記憶される側に過ぎず、結局、死んだものたちによって、記憶されている限りにおいて、わたしたちはその死んだものたちのことを思い出すことができるのではないか?
 彼女は「覚えていてくれるといいな。忘れてたら悲しいもの」ということを言ったかどうか、はっきりとは思い出せないが、しかしそういう方向性のことは確実に言っていたわけだけど、死者が忘れる、ということがあるのだろうか。死者が覚えているとしたら、死者が生者のことをわすれてしまう、生者がその死者のことを覚えているにかかわらず! という話は、考えてもみるとわりによくある話で、そもそも例えば「うらめしや」とでてくる幽霊は確実に覚えているのだが、『バイオハザード』とかのゾンビはきっと覚えていない。
 いや、言いたいのはそういう話ともちょっと違って、そもそもここで喋っていた「覚えている、死んでしまったもの」というのは、具体的にどのような存在を、俺とその知人とは、仮定しつつ、喋っていたのだろうか。それは幽霊とも違うし、観念とも違う気がする。しいて言えば、「直感そのもの」みたいなものに限りなく近い、存在、というか。
 「直感そのもの」によって感知される、その、幽霊でも観念でもない存在というのは、しかし、おそらくこうした会話などによる「記憶の共有」を介してしかたちあらわれない、すごく「関係性の上」にしかないもので、あるいみまた、「関係性そのものの記憶的触媒」とでもいうような気がする。
 ごめん、かなり適当な造語を作ってしまったのだが、ようするに人と人とのかかわりの上での、その瞬間瞬間にのみ組織されてその時のそのかかわり(会話とか)の中限定で働くその人たちのみ共有の「記憶」もどきみたいなもので、全然要していないのだが、その中で「死者」が泡のようにその都度彼らの間に想起されて、その死者が「記憶する」。
 その死者が記憶することが、つまり生きている私たちがその死者を介した私たち間のかかわりの中でその死者について「思い出し」たり、「考え」たり、要するに「偲ぶ」「悼む」ということなのか。
 つまり私たちが偲び悼んでいるとき、わたしたちは死んでしまったものたちに記憶されていることをよりどころとして、死んでしまったものたちをおもいだしているということ。
 死んでしまったものたちは、生きている私たちが日々つくる関係性の延長にあって、そこからわたしたちに「覚えている」ことを送っている。ということ。

 ここにいなくなってしまったものたちは、空洞だが、わたしたちはその空洞を中心にして渦を巻く竜巻のような形で、きっと関係性を構築しているのだということ。

 ここにいないというときに、それがいいたいのは、「ここ」には「いない」というだけである。(しかしこれは「どこかに」―「いる」という関連性を導き出す為の言葉ではない。)
 「ここ」には、「いない」というのは、「ここには、いない」というだけだ。
 むしろ「ここにはいない」、外側に運動する関係性の方だ。

 そのことがわたしたちのものをしている。

展示とワークショップ

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4月5日まで、両国にある「緑壱」(http://ryougoku.org/ryokuichi/)というギャラリーで、グループ展を行っています。昨年1年は、「色」「文字」「絵」をテーマにしたアートセラピーを個人的に受けていたのですが、そのまとめ・現状発表の展示になっています。

会期中にはアートセラピーの体験ワークショップも開催しています。
最終日4月5日には、自分も講師としてワークショップに参加します。
ご機会あれば、ぜひご来場ください。

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